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文宗の肖像

唐(とう)第17代統一王朝

文宗(ぶんそう)李(り)昂(こう)

在位 827年1月13日〜840年2月10日(13年31日)

姓李(り)諱昂(こう)

文宗の人物データ

生年
不詳
在位
  • 827年1月13日〜840年2月10日
在位 13年31日長さは365名中103位
没年
840年2月10日33歳(数え年)267名中長寿順174位タイ
死因
病死365名中167名
即位経路
擁立
先代
  • 敬宗唐文宗は敬宗の弟
次代
  • 武宗唐武宗は文宗の弟

出典(死因・即位経路)

死因
旧唐書 本紀第十七下(文宗下)/資治通鑑 巻246(唐紀62・開成四年)
即位経路
旧唐書 本紀第十七上(文宗上)

死因と即位経路を判定するときに読んだ正史の書名と巻です。

生涯

どんな皇帝か

宦官(かんがん)に擁立され、宦官(かんがん)を除こうとした甘露(かんろ)の変に失敗してからは、自ら家奴に制せられていると嘆いた唐の皇帝である。

即位まで

穆宗(ぼくそう)の第二子で、江王(こうおう)に封じられていた。827年、兄の敬宗(けいそう)が夜の狩りの後の酒宴で宦官(かんがん)の劉克明(りゅうこくめい)らに殺された。旧唐書(くとうじょ)によれば、蘇佐明(さめい)らが詔を偽って絳王(こうおう)に国事を執らせたが、王守澄(しゅちょう)らが禁軍(きんぐん)で絳王(こうおう)を討ち、江王(こうおう)を迎えて立てた。宰相百官の三度の上表(じょうひょう)を受けて、同じ年に宣政殿(せんせいでん)で即位した。

治世と最期

831年には王守澄(しゅちょう)が宰相(さいしょう)宋(そう)申錫(しんしゃく)を謀反で告げ、宋(そう)申錫(しんしゃく)は貶(へん)されたが、まもなく誣告(ぶこく)と知れた。李(り)訓・鄭(てい)注が権を握った835年、中使(ちゅうし)を遣わして王守澄(しゅちょう)に死を賜った。同じ年、李(り)訓らは宦官(かんがん)を誅(ちゅう)そうとして石榴(ざくろ)の木に甘露(かんろ)が降りたと偽り文宗(ぶんそう)を誘ったが、伏兵に気づいた宦官(かんがん)が文宗(ぶんそう)の輿を宮中へ連れ去り、仇士良(しりょう)が宰相の王涯(おうがい)らを一族ごと殺した。資治通鑑(しじつがん)は、この変の後は天下の事をすべて宦官(かんがん)が決め、宰相は文書を行うだけになったと記す。838年に皇太子の永が死に、翌年には敬宗(けいそう)の子の陳王(ちんおう)成美(せいび)を皇太子とした。新唐書(しんとうじょ)の仇士良(きゅうしりょう)伝によれば、839年に風痺(ふうひ)を病んだ文宗(ぶんそう)は学士(がくし)周墀(ち)に、周の赧王(たんおう)や漢の献帝(けんてい)は強臣に制せられたが自分は家奴に制せられていると言って泣き、以後朝に出なかった。840年に太和殿(たいわでん)で没した。旧唐書(くとうじょ)の文宗(ぶんそう)紀(き)は没する前に詔で弟の潁王(えいおう)を皇太弟(こうたいてい)としたと書くが、同じ旧唐書(くとうじょ)の武宗(ぶそう)紀(き)と資治通鑑(しじつがん)は、それを仇士良(しりょう)・魚弘志(こうし)が偽った詔だとし、資治通鑑(しじつがん)は太子擁立が自分たちの功にならないためだったとする。

在位中の出来事(8件)

改元827年2月元号を「大和」とする
大赦827年2月大和元年正月乙巳、丹鳳楼に御し大赦、改元大和(第1回改元と同日)。
被反乱827年7月〜829年5月李同捷の乱(滄景の乱)
大赦829年大和三年十一月甲申、昊天上帝を南郊に親祀、礼畢りて丹鳳門に御し大赦。
被反乱829年亓志紹の乱(魏博行営)
被反乱830年興元軍乱(李絳殺害事件)
改元836年元号を「開成」とする
大赦836年開成元年正月辛丑朔、宣政殿にて朝賀を受け、大赦天下、改元開成(第2回改元と同日)。

唐の歴代皇帝

24名の一覧

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