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元宗の肖像

南唐(なんとう)(五代十国(ごだいじっこく))第2代分裂期の王朝

元(げん)宗(そう)李璟(りけい)

在位 943年4月8日〜958年6月(15年58日)

姓李(り)諱璟(けい)字伯玉(はくぎょく)

元宗の人物データ

生年
不詳
在位
  • 943年4月8日〜958年6月
在位 15年58日28歳で即位(数え年)・長さは365名中85位
没年
961年8月12日46歳(数え年)267名中長寿順99位タイ
死因
病死365名中167名
即位経路
世襲
先代
  • 烈祖南唐元宗は烈祖の子
次代
—
目立つ記録
  • 皇太子廃立1回(27名中4位タイ)

出典(死因・即位経路)

死因
陸游『南唐書』巻二(元宗本紀)
即位経路
陸游『南唐書』巻二(元宗本紀)

死因と即位経路を判定するときに読んだ正史の書名と巻です。

生涯

どんな皇帝か

李璟(りけい)は南唐(なんとう)の第2代で、943年に父の李昪(りべん)の跡を継いだ。958年に後周(こうしゅう)に江北(こうほく)を献じて帝号(ていごう)を去り、961年に没した。

即位まで

新五代史(しんごだいし)は、李璟(りけい)は李昪(りべん)の長子で、初名は景通(けいつう)といい、立ってのち李璟(りけい)と改名したと記す。資治通鑑(しじつがん)は、李昪(りべん)の死を秘して喪を発せず、斉王(せいおう)李璟(りけい)に監国(かんこく)させ大赦する制を下したと記す。陸游(ゆう)の南唐(なんとう)書は、烈祖(れつそ)の死から十日ほど経っても李璟(りけい)は位を嗣がず、諸弟に譲って泣いていたが、周宗が衮冕(こんべん)を着せて小節を固守してはならぬと言い、この日即位して大赦・改元(かいげん)したと記す。新五代史(しんごだいし)は、保大(ほだい)と改元(かいげん)し、母の宋氏(そうし)を皇太后、妃の鍾氏(しょうし)を皇后に立てたと記す。

治世と最期

943年、虔州(けんしゅう)の妖賊張遇賢(ぐうけん)を破った。閩(びん)の乱に乗じて建州(けんしゅう)の王延政(おうえんせい)を攻めさせ、資治通鑑(しじつがん)は、王延政(おうえんせい)が降ったと記す。951年、楚(そ)では希萼(きがく)が衡山(こうざん)に囚われ、弟の希崇(きすう)が立って李璟(りけい)に附き、楚(そ)が大乱となった。李璟(りけい)は辺鎬(こう)を遣わして楚(そ)を攻め、潭州(たんしゅう)を破って馬氏(ばし)の一族を金陵(きんりょう)に遷した。955年、後周(こうしゅう)が南征して寿州(じゅしゅう)から攻めた。のち、李璟(りけい)は臣と称する表を奉って六州の割譲を請い、兵を罷めることを求めたが、世宗(せいそう)は報じなかった。958年、周が楚州(そしゅう)・海・泰・揚州(ようしゅう)を取って世宗(せいそう)が長江(ちょうこう)に臨むと、李璟(りけい)は支えきれぬことを知りつつ名号を去るのを恥じ、国を世子に伝えて命を聴くことを請うた。名を改めた向きは書で逆になり、新五代史(しんごだいし)は周の廟諱(びょうき)を避けて李璟(りけい)としたと書き、資治通鑑(しじつがん)は景に更めたと記す。資治通鑑(しじつがん)は、帝号(ていごう)を去って国主と称し、年号を去って周の正朔(せいさく)を用いたと記す。新五代史(しんごだいし)と旧五代史(きゅうごだいし)の周の本紀(ほんぎ)には、帝号(ていごう)を去ったという記事が無い。961年、李璟(りけい)は洪州(こうしゅう)の南都(なんと)に遷り、太子の従嘉(じゅうか)を留めて監国(かんこく)させた。洪州(こうしゅう)は狭く、群臣は日夜帰ることを思い、李璟(りけい)は悔いて怒りやまなかった。陸游(ゆう)の南唐(なんとう)書は、李璟(りけい)が病中に膳を進めず、蔗漿(しゃしょう)をすするのみで、長春殿(ちょうしゅんでん)で没したと記す。没した年齢を、新五代史(しんごだいし)は六十四、陸游(ゆう)は四十六とし、新五代史(しんごだいし)は病名を書かない。

在位中の出来事(10件)

改元943年4月元号を「保大」とする
大赦943年4月
立后943年4月
被反乱943年11月張遇賢の乱(虔州侵攻)
大赦950年
被反乱952年楚地(湖南)反乱
改元958年2月元号を「中興」とする
改元958年4月元号を「交泰」とする
大赦958年4月
皇太子廃立958年4月

南唐の歴代皇帝

2名の一覧

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