
南唐(五代十国)第2代分裂期の王朝
元宗李璟
在位 943年4月8日〜958年6月(15年58日)
元宗の人物データ
出典(死因・即位経路)
- 死因
- 陸游『南唐書』巻二(元宗本紀)
- 即位経路
- 陸游『南唐書』巻二(元宗本紀)
死因と即位経路を判定するときに読んだ正史の書名と巻です。
生涯
どんな皇帝か
李璟は南唐の第2代で、943年に父の李昪の跡を継いだ。958年に後周に江北を献じて帝号を去り、961年に没した。
即位まで
新五代史は、李璟は李昪の長子で、初名は景通といい、立ってのち李璟と改名したと記す。資治通鑑は、李昪の死を秘して喪を発せず、斉王李璟に監国させ大赦する制を下したと記す。陸游の南唐書は、烈祖の死から十日ほど経っても李璟は位を嗣がず、諸弟に譲って泣いていたが、周宗が衮冕を着せて小節を固守してはならぬと言い、この日即位して大赦・改元したと記す。新五代史は、保大と改元し、母の宋氏を皇太后、妃の鍾氏を皇后に立てたと記す。
治世と最期
943年、虔州の妖賊張遇賢を破った。閩の乱に乗じて建州の王延政を攻めさせ、資治通鑑は、王延政が降ったと記す。951年、楚では希萼が衡山に囚われ、弟の希崇が立って李璟に附き、楚が大乱となった。李璟は辺鎬を遣わして楚を攻め、潭州を破って馬氏の一族を金陵に遷した。955年、後周が南征して寿州から攻めた。のち、李璟は臣と称する表を奉って六州の割譲を請い、兵を罷めることを求めたが、世宗は報じなかった。958年、周が楚州・海・泰・揚州を取って世宗が長江に臨むと、李璟は支えきれぬことを知りつつ名号を去るのを恥じ、国を世子に伝えて命を聴くことを請うた。名を改めた向きは書で逆になり、新五代史は周の廟諱を避けて李璟としたと書き、資治通鑑は景に更めたと記す。資治通鑑は、帝号を去って国主と称し、年号を去って周の正朔を用いたと記す。新五代史と旧五代史の周の本紀には、帝号を去ったという記事が無い。961年、李璟は洪州の南都に遷り、太子の従嘉を留めて監国させた。洪州は狭く、群臣は日夜帰ることを思い、李璟は悔いて怒りやまなかった。陸游の南唐書は、李璟が病中に膳を進めず、蔗漿をすするのみで、長春殿で没したと記す。没した年齢を、新五代史は六十四、陸游は四十六とし、新五代史は病名を書かない。
在位中の出来事(10件)
南唐の歴代皇帝
2名の一覧- 第1代烈祖937–943年病死
- 第2代元宗943–958年病死