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閩(びん)(五代十国(ごだいじっこく))第4代分裂期の王朝

恵宗(けいそう)王延鈞(おうえんきん)

在位 933年2月〜935年11月17日(2年289日)

姓王(おう)諱延鈞(えんきん)廟号太宗(たいそう)

恵宗の人物データ

生年
不詳
在位
  • 933年2月〜935年11月17日
在位 2年289日長さは365名中231位
没年
935年11月17日
死因
暗殺非業の死・365名中94名
即位経路
簒奪帝号を新たに称した
先代
  • 王延翰恵宗は王延翰の弟
次代
  • 康宗閩康宗は恵宗の子

出典(死因・即位経路)

死因
新五代史 巻六十八(閩世家第八)/十国春秋 巻九十四(李仿伝)
即位経路
新五代史 巻六十八(閩世家第八)

死因と即位経路を判定するときに読んだ正史の書名と巻です。

生涯

どんな皇帝か

王延鈞(おうえんきん)は閩(びん)の王審知(おうしんち)の次子で、兄の王延翰(おうえんかん)を倒した政変のあとに立ち、933年に皇帝を称した。935年に子の王継鵬(おうけいほう)と皇城使(こうじょうし)の李(り)仿(ほう)が起こした政変で殺された。

即位まで

新五代史(しんごだいし)の閩(びん)世家(せいか)は、王審知(おうしんち)の死後に長子の王延翰(おうえんかん)が継いだが、泉州(せんしゅう)刺史(しし)に出された弟の王延鈞(おうえんきん)が養子の王延禀(えんりん)と謀って延翰(えんかん)を殺し、延鈞(えんきん)が立ったと記す。資治通鑑(しじつがん)は、先に福州(ふくしゅう)に着いた王延禀(えんりん)が延翰(えんかん)を捕らえて罪を数え、延鈞(えんきん)を威武留後(いぶりゅうご)に推したと記す。十国春秋(じっこくしゅんじゅう)の注は、延鈞(えんきん)の到着を新五代史(しんごだいし)が明日、資治通鑑(しじつがん)が同日と書いていると、食い違いを指摘する。

治世と最期

資治通鑑(しじつがん)は、延鈞(えんきん)が呉越王(ごえつおう)の授与を朝廷に請うても答えが無く、これ以後は貢物を絶やしたと記す。933年、資治通鑑(しじつがん)は、延鈞(えんきん)が宝皇宮(ほうこうきゅう)で冊(さく)を受けて皇帝に即き、国号を大閩(だいびん)、元号を龍啓(りゅうけい)としたと記す。新五代史(しんごだいし)は年を書かない。新五代史(しんごだいし)は、国用(こくよう)が足りず、薛(せつ)文杰(ぶんけつ)を国計使(こくけいし)にして富民を罪に落とし財産を没収させたため閩人(びんじん)が怨み、のち文杰(ぶんけつ)は檻車(かんしゃ)で軍中に送られて市で磔(はりつけ)にされたと記す。935年、資治通鑑(しじつがん)は、李(り)仿(ほう)が壮士に李(り)可殷(かいん)を打ち殺させ、翌日に延鈞(えんきん)から理由を問われて恐れ、部兵を率いて宮に入ったと記す。新五代史(しんごだいし)は、延鈞(えんきん)の子の継鵬(けいほう)が李(り)仿(ほう)とともに衛士を率いて入ったとする。延鈞(えんきん)は九龍帳(きゅうりゅうちょう)に隠れて刺されたが絶えず、宮人(きゅうじん)がとどめを刺した。新五代史(しんごだいし)と資治通鑑(しじつがん)はともにそう記す。旧五代史(きゅうごだいし)の末帝(まつてい)紀(き)は、延鈞(えんきん)の死を王継鵬(おうけいほう)の奏報(そうほう)として載せるだけで、弑逆(しいぎゃく)には触れない。

在位中の出来事(6件)

改元933年2月元号を「龍啓」とする
大赦933年2月
改元935年2月6日元号を「永和」とする
大赦935年2月6日永和元年正月丙申朔(グレゴリオ暦935年2月6日、干支換算により確認)、改元・淑妃陳氏の立后と同時に大赦を行った。
立后935年2月6日永和元年正月丙申朔(グレゴリオ暦935年2月6日)、淑妃陳氏(幼名金鳳。母の陸氏は福建観察使陳巖の妾で、父は侯倫。陳巖の死後、その妻の弟である范暉に託されて生まれ、太祖王審知が閩に入って范暉を殺すと民間に流落し、族人の陳匡勝に養われた。のちに良家子として後宮に入った人物)を皇后に立てた。
被反乱935年11月李仿・王継鵬のクーデター

閩の歴代皇帝

4名の一覧

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