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閩(びん)(五代十国(ごだいじっこく))第6代分裂期の王朝

景宗(けいそう)王延羲(おうえんぎ)

在位 941年11月〜944年4月8日(2年159日)

姓王(おう)諱延羲(えんぎ)

景宗の人物データ

生年
不詳
在位
  • 941年11月〜944年4月8日
在位 2年159日長さは365名中244位
没年
944年4月8日
死因
暗殺非業の死・365名中94名
即位経路
擁立帝号を新たに称した
先代
  • 康宗閩景宗は康宗の叔父
次代
—

出典(死因・即位経路)

死因
十国春秋 巻九十二(景宗本紀)
即位経路
新五代史 巻六十八(閩世家第八)

死因と即位経路を判定するときに読んだ正史の書名と巻です。

生涯

どんな皇帝か

王延羲(おうえんぎ)は王審知(おうしんち)の少子で、甥(おい)の王継鵬(おうけいほう)が連重遇(れんちょうぐう)に攻められたあとに迎えられて立ち、941年に皇帝を称した。944年に朱文進(ぶんしん)と連重遇(れんちょうぐう)の手で殺された。

即位まで

資治通鑑(しじつがん)は、王継鵬(おうけいほう)が宗室(そうしつ)を疑って誅(ちゅう)するなか、叔父の延羲(えんぎ)は狂愚を装って禍を避け、私邸に幽閉されていたと記す。連重遇(れんちょうぐう)は北宮(ほくきゅう)の火事で疑われて殺されそうになり、兵で継鵬(けいほう)を攻めて、延羲(えんぎ)を瓦礫(がれき)の中から迎えて万歳を呼ばせた。資治通鑑(しじつがん)はそう記す。継鵬(けいほう)を捕らえて殺した王継業(けいぎょう)を、新五代史(しんごだいし)は延羲(えんぎ)の子とし、資治通鑑(しじつがん)は延羲(えんぎ)の兄の子とする。

治世と最期

941年、資治通鑑(しじつがん)は、延羲(えんぎ)が皇帝の位に即き、弟の王延政(おうえんせい)が兵馬元帥を自称したと記す。新五代史(しんごだいし)は、延羲(えんぎ)と延政(えんせい)が不和になってたびたび攻め合い、延羲(えんぎ)は宗室(そうしつ)を憎んで多くを誅(ちゅう)したと記す。新五代史(しんごだいし)は、延羲(えんぎ)が酒に溺れ、諫(いさ)めた者を左遷(させん)し、上書した陳光逸(こういつ)を鞭打(むちう)って木に吊(つ)るして殺したと記す。資治通鑑(しじつがん)は、944年、延羲(えんぎ)の妻の李(り)后が尚賢妃(けんぴ)の寵(ちょう)を妬み、延羲(えんぎ)が二人に不満を抱いていると朱文進(ぶんしん)と連重遇(れんちょうぐう)に告げさせたと記す。二人は銭達に命じ、延羲(えんぎ)を馬上で殺させた。旧五代史(きゅうごだいし)の少帝(しょうてい)紀(き)も、延羲(えんぎ)が連重遇(れんちょうぐう)と朱文進(ぶんしん)に害されたと記す。

在位中の出来事(3件)

被反乱940年〜943年王延政の自立・反乱(建州挙兵〜大殷建国)
立后942年永隆四年正月、司空李真の娘・李氏を皇后に立てる。
被反乱944年4月〜944年4月8日朱文進・連重遇のクーデター(景宗弑殺)

閩の歴代皇帝

4名の一覧

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