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閩(びん)(五代十国(ごだいじっこく))第5代分裂期の王朝

康宗(こうそう)王継鵬(おうけいほう)

在位 935年11月18日〜939年8月29日(3年285日)

姓王(おう)諱継鵬(けいほう)

康宗の人物データ

生年
不詳
在位
  • 935年11月18日〜939年8月29日
在位 3年285日長さは365名中203位
没年
939年8月29日
死因
暗殺非業の死・365名中94名
即位経路
簒奪
先代
  • 恵宗閩康宗は恵宗の子
次代
  • 景宗閩景宗は康宗の叔父

出典(死因・即位経路)

死因
十国春秋 巻九十一(康宗本紀)
即位経路
十国春秋 巻九十一(康宗本紀)

死因と即位経路を判定するときに読んだ正史の書名と巻です。

生涯

どんな皇帝か

閩(びん)の王延鈞(おうえんきん)の長子で、父を殺して位に即き、道士と巫を重んじたのち、自らも禁軍(きんぐん)の将の政変で殺された。

即位まで

父の王延鈞(おうえんきん)が道士の陳守元(しゅげん)の言に従って一時位を退いたとき、王継鵬(おうけいほう)は府事(ふじ)を代行したことがある。王継鵬(おうけいほう)が父の婢の春燕(しゅんえん)と通じると、弟の王継韜(けいとう)が怒って兄を殺そうと謀り、王継鵬(おうけいほう)は恐れて皇城使(こうじょうし)の李(り)仿(ほう)と謀った。新五代史(しんごだいし)は、935年に李(り)仿(ほう)と王継鵬(おうけいほう)が衛士を率いて宮に入り、王延鈞(おうえんきん)は九龍帳(きゅうりゅうちょう)に隠れて刺されたが死にきれず、宮人(きゅうじん)がとどめを刺したと記す。資治通鑑(しじつがん)は宮に攻め入ったのを李(り)仿(ほう)の部兵とし、王継鵬(おうけいほう)はそのあと李(り)仿(ほう)とともに陳后と王継韜(けいとう)らを殺したとする。王継鵬(おうけいほう)は皇太后の令と称して監国(かんこく)し、同じ日に即位して名を昶(ちょう)と改め、大赦した。旧五代史(きゅうごだいし)は、王継鵬(おうけいほう)が後唐(こうとう)に父は卒したとだけ奏上したことを載せ、殺害には触れない。

治世と最期

即位後まもなく、死士を養う李(り)仿(ほう)を宴に誘い出して殺し、李(り)仿(ほう)の部曲(ぶきょく)は啓聖門(けいせいもん)を焼いてその首を奪い、呉越へ逃げた。936年に通文(つうぶん)と改元(かいげん)し、李氏(りし)を皇后に立てた。巫を好み、陳守元(しゅげん)を天師(てんし)として政まで相談し、三清台(さんせいだい)を築いて黄金数千斤で宝皇(ほうこう)・元始天尊(げんしてんそん)・太上老君(たいじょうろうくん)の像を鋳た。巫の林興の言によって叔父の王延武(えんぶ)・王延望(えんぼう)とその子らを殺させた。この殺害を新五代史(しんごだいし)は938年の夏に置き、十国春秋(じっこくしゅんじゅう)と資治通鑑(しじつがん)は939年とする。新たに募った宸衛都(しんえいと)を厚く遇したため、控鶴都将(こうかくとしょう)の連重遇(れんちょうぐう)と拱宸都将(きょうしんとしょう)の朱文進(ぶんしん)が怒り、939年、連重遇(れんちょうぐう)は夜に宮を焼いて攻めた。資治通鑑(しじつがん)によれば、王延羲(おうえんぎ)は兄の子の王継業(けいぎょう)に追わせ、王継業(けいぎょう)は陀荘(だそう)で王継鵬(おうけいほう)を酒に酔わせて縊(くび)り殺し、皇后と諸子も死んだ。新五代史(しんごだいし)は王継業(けいぎょう)を王延羲(おうえんぎ)の子とし、王継鵬(おうけいほう)を捕らえて殺したと書く。新五代史(しんごだいし)は、後を継いだ王延羲(おうえんぎ)が康宗(こうそう)と諡(おくりな)したと記す。

在位中の出来事(5件)

大赦935年11月18日恵宗(王延鈞)が李仿らに弑殺された翌日、継鵬(後の王昶)が皇帝に即位。
被反乱935年12月19日李仿部曲の乱
改元936年元号を「通文」とする
立后936年即位当初(935年)は李春鷰を賢妃に冊立するにとどまっていたが、通文元年(936年)正月、改元と同時期に正式に皇后として立后した。
被反乱939年8月29日連重遇・硃文進の政変(南宮焼き討ち・康宗弑逆)

閩の歴代皇帝

4名の一覧

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