
北宋第2代統一王朝
太宗趙炅
在位 976年11月15日〜997年5月8日(20年179日)
姓趙諱炅
太宗の人物データ
出典(死因・即位経路)
- 死因
- 宋史 本紀五(太宗二)
- 即位経路
- 宋史 本紀四(太宗一)/続資治通鑑長編 巻十七
死因と即位経路を判定するときに読んだ正史の書名と巻です。
生涯
どんな皇帝か
太宗は宣祖の第三子で、太祖の同母の弟である。976年に太祖が崩じると即位し、979年に北漢を平らげたが、同じ年に幽州で契丹に敗れた。
即位まで
宋史の昭憲杜太后伝は、太后が太祖と太宗らを生んだと記す。宋史の太祖紀は、太祖が癸丑の夕に万歳殿で崩じたとだけ記し、崩御の様子や死因に触れない。太宗紀も、太祖が崩じて太宗がそのまま皇帝の位に即いたとだけ記す。宋史の廷美伝は、昭憲太后が病んだとき、太祖に位を太宗へ伝えるよう命じ、趙普が誓約書を作って金匱に納めたと記す。続資治通鑑長編は本文で、太祖が崩じた夜に晋王を召して後事を託し、燭の影の下で晋王が席を離れて遠慮するように見えたと記し、注でこれは僧文瑩の湘山野録に拠ったもので正史・実録には無いと断る。宋史の太祖紀と太宗紀には、この燭影の場面も斧声の記述も無い。宋史の太宗紀の賛は、太祖の崩御から一年を待たずに改元したこと、廷美の貶死、徳昭の自殺について、後世に議論が無いわけにいかないと記す。
治世と最期
979年、太宗が太原城を攻めている最中に北漢主の劉継元が降り、北漢が平定された。同じ年、太宗は自ら契丹を伐つと言って幽州に至り、高梁河で大戦して敗れ、翌日に班師した。986年の北伐では、曹彬の軍が岐溝関で大敗し、楊業は契丹に捕らえられて節を守って死んだ。995年、太宗は寿王元侃を皇太子に立て、名を恒に改めさせた。997年、太宗は不豫となり、のち崩じた。宋史の太宗紀は病名を記さない。宋史の太宗紀には無いが、続資治通鑑長編は、王継恩らが楚王元佐を立てようとし、宰相の呂端が継恩を閉じ込めて皇太子を立てたと記す。
在位中の出来事(27件)
大赦976年11月開寶九年十月乙卯(即位の2日後)、大赦。
改元977年元号を「太平興国」とする
大赦977年
被反乱977年梅山洞賊
大赦978年太平興國三年十一月丙申、天地を圜丘に祀り大赦。
親征979年北漢(太原)
親征979年契丹(幽州・高梁河の戦い)
親征980年契丹(関南・莫州方面)
被反乱980年徐州妖賊李緒の乱
大赦981年太平興國六年十一月辛亥、天地を圜丘に祀り大赦。
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被反乱981年緜州妖賊王禧の乱
改元984年元号を「雍熙」とする
大赦984年
立后985年雍熙元年十二月壬辰、德妃李氏を皇后に冊立(後の明德皇后)。
改元988年元号を「端拱」とする
大赦988年
大赦989年端拱二年八月丙辰、大赦(同夜、彗星が見えなくなったと付記)。
改元990年元号を「淳化」とする
被反乱991年夔州亂卒謝榮の乱(兵士反乱)
大赦993年淳化四年正月辛卯、天地を圜丘に祀り宣祖・太祖を配祀した上で大赦。
被反乱993年〜995年王小波・李順の乱
大赦994年淳化五年九月壬申、襄王元侃を開封尹とし壽王に改封したのに伴い大赦。
被反乱994年貝州驍捷卒の乱(兵士反乱)
改元995年元号を「至道」とする
大赦995年至道元年八月壬辰、壽王元侃を皇太子に立てる(改名恒)のに伴い大赦。
大赦996年至道二年正月辛亥、天地を圜丘に祀り大赦。
被反乱996年許州羣盜の乱