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神宗の肖像

北宋(ほくそう)第6代統一王朝

神宗(しんそう)趙頊(ちょうきょく)

在位 1067年1月25日〜1085年4月1日(18年71日)

姓趙(ちょう)諱頊(きょく)

神宗の人物データ

生年
1048年5月25日
在位
  • 1067年1月25日〜1085年4月1日
在位 18年71日20歳で即位(数え年)・長さは365名中63位
没年
1085年4月1日38歳(数え年)267名中長寿順144位タイ
死因
病死365名中167名
即位経路
世襲
先代
  • 英宗北宋神宗は英宗の子
次代
  • 哲宗北宋哲宗は神宗の子

出典(死因・即位経路)

死因
宋史 本紀十六(神宗三)
即位経路
宋史 本紀十四(神宗一)

死因と即位経路を判定するときに読んだ正史の書名と巻です。

生涯

どんな皇帝か

神宗(しんそう)(趙頊(ちょうきょく))は北宋(ほくそう)の英宗(えいそう)の長子で、王安石(あんせき)を用いて新法を行わせた皇帝である。治世の後半には西夏(せいか)を攻めたが、霊州(れいしゅう)攻めと永楽(えいらく)城で大きな敗北を重ねた。

即位まで

母は英宗(えいそう)の皇后の高氏(こうし)で、1048年に濮王(ぼくおう)の宮で生まれた。英宗(えいそう)の病中に皇太子に立てられ、1067年に英宗(えいそう)が崩じると即位した。

治世と最期

1069年、王安石(あんせき)を参知政事(さんちせいじ)とし、陳升之(しょうし)と王安石(あんせき)が制置三司条例司(せいちさんしじょうれいし)を設けて新法を議した。王安石(あんせき)を論じた御史中丞(ぎょしちゅうじょう)の呂誨(かい)は罷められ、孫覚・呂公著(こうちょ)・程顥(こう)らが上疏(じょうそ)して反対しても、神宗(しんそう)は聴かなかった。保甲法(ほこうほう)と免役法(めんえきほう)を始め、王安石(あんせき)を宰相とした。宋史(そうし)の王安石(あんせき)伝によれば、1074年の大旱(たいかん)で鄭(てい)侠(きょう)が流民の図を献じ、曹太后(たいこう)と高太后(たいこう)が泣いて王安石(あんせき)が天下を乱すと訴えたため、神宗(しんそう)も疑って王安石(あんせき)を罷めた。王安石(あんせき)は翌年に宰相に戻ったが、1076年に再び罷めて江寧府(こうねいふ)に去った。1081年、西夏(せいか)の国主が囚われたとの報を受けて西夏(せいか)討伐を命じたが、种(ちゅう)諤(がく)の軍は夏州(かしゅう)で食糧が尽きて潰え、霊州(れいしゅう)から引き揚げた高遵裕(じゅんゆう)の軍も追撃されて潰えた。翌年、新たに築いた永楽(えいらく)城が西夏(せいか)の大軍に囲まれて陥ち、徐禧(き)らが戦死した。宋史(そうし)の徐禧(き)伝によれば、神宗(しんそう)はこれを聞いて涕泣(ていきゅう)して食を絶ち、以後は西夏(せいか)討伐の意を失ったという。1085年の初めに病に伏し、皇太后の高氏(こうし)がともに政を聴くことになり、延安郡王(えんあんぐんおう)の趙(ちょう)傭(よう)を皇太子に立てて煦(く)と名を改めさせた数日後に、福寧殿(ふくねいでん)で崩じた。続資治通鑑(しじつがん)長編(ちょうへん)の注は、この皇太子の冊立(さくりつ)に諸家の異説があるとし、冊立(さくりつ)が奏されたとき神宗(しんそう)はすでに口がきけなかったという記録を引いている。宋史(そうし)の本紀(ほんぎ)は病名を記さず、永楽(えいらく)城の敗北と病を結びつけてもいない。

在位中の出来事(23件)

大赦1067年1月26日
立后1067年2月22日
改元1068年元号を「熙寧」とする
大赦1068年
大赦1071年
大赦1074年
大赦1075年
改元1077年元号を「元豊」とする
大赦1077年
大赦1080年
残り13件を表示
大赦1082年
大赦1082年
大赦1083年
大赦1085年2月6日
大赦1085年3月29日
被反乱日付不詳渝州夷賊李光吉の乱
被反乱日付不詳慶州廣銳卒の叛乱(軍卒兵変)
被反乱日付不詳瀘夷の乱(熊本平瀘夷)
被反乱日付不詳辰沅徭賊の乱
被反乱日付不詳瀘州夷乞弟の乱
被反乱日付不詳順州蠻の叛乱
被反乱日付不詳豐州卒張世矩の叛乱(軍卒作乱)
被反乱日付不詳安化蠻の宜州侵寇

北宋の歴代皇帝

9名の一覧

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