
南宋第4代分裂期の王朝
光宗趙惇
在位 1189年2月18日〜1194年7月24日(5年157日)
光宗の人物データ
出典(死因・即位経路)
- 死因
- 宋史 本紀 巻三十六(光宗)
- 即位経路
- 宋史 本紀 巻三十七(寧宗一)
死因と即位経路を判定するときに読んだ正史の書名と巻です。
生涯
どんな皇帝か
孝宗から位を譲られたが、李皇后のために孝宗と不和になり、病のため父の喪も執れずに退位させられた南宋の皇帝である。宋史の賛は、紹熙の初めの政には取るべき所があったが、宮中の嫉妬を制せずに驚き憂えて病を得たと評する。
即位まで
孝宗の第三子である。荘文太子が死ぬと、孝宗は英武が自分に似ているとして太子にしようとしたが、順序が違うため遅らせ、1171年に兄の慶王を越えて皇太子とした。1187年に高宗が没すると庶務に加わり、1189年、孝宗が政に倦んだとして位を譲り、再三辞退したのちに即位した。即位の日、妃の李氏が皇后に立てられた。
治世と最期
李皇后は嫉妬が強く、高宗は皇甫坦に誤らされたと嘆き、孝宗はたびたび皇后を戒めた。1191年、李皇后が黄貴妃を殺して急死と届け、続く郊祀は大風雨で礼を成さず、光宗は震え恐れて病を得て、以後は政を見なくなった。李皇后伝によれば、孝宗が授けようとした薬を宦官が皇后に毒だと吹き込み、嘉王の立太子を拒まれた皇后が孝宗に廃立の意があると訴えたため、光宗は孝宗のもとへ参らなくなった。1193年、重華宮の孝宗のもとへ行こうとしたのを皇后が止め、陳傅良が裾を引いて諫めても聞かず、太学生ら二百余人の上書にも応じなかった。1194年に孝宗が没しても、光宗は病で喪を執らなかった。宰臣が嘉王の立太子を請うと許したが、のちに長く位にあって退きたいという御筆が返ってきた。同じ年、太皇太后の命で嘉王が即位し、光宗は太上皇帝とされた。趙汝愚伝によれば、この内禅は趙汝愚が韓侂冑らを通じて太皇太后を動かしたものである。光宗紀・寧宗紀・趙汝愚伝のいずれにも、光宗が内禅に同意したという記述は無い。1200年に寿康宮で没した。