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光宗の肖像

南宋(なんそう)第4代分裂期の王朝

光宗(こうそう)趙惇(ちょうとん)

在位 1189年2月18日〜1194年7月24日(5年157日)

姓趙(ちょう)諱惇(とん)

光宗の人物データ

生年
1147年9月30日
在位
  • 1189年2月18日〜1194年7月24日
在位 5年157日長さは365名中179位
没年
1200年9月17日54歳(数え年)267名中長寿順62位タイ
死因
病死365名中167名
即位経路
内禅
先代
  • 孝宗南宋光宗は孝宗の子
次代
  • 寧宗南宋寧宗は光宗の子

出典(死因・即位経路)

死因
宋史 本紀 巻三十六(光宗)
即位経路
宋史 本紀 巻三十七(寧宗一)

死因と即位経路を判定するときに読んだ正史の書名と巻です。

生涯

どんな皇帝か

孝宗(こうそう)から位を譲られたが、李(り)皇后(こうごう)のために孝宗(こうそう)と不和になり、病のため父の喪も執れずに退位させられた南宋(なんそう)の皇帝である。宋史(そうし)の賛(さん)は、紹熙(しょうき)の初めの政には取るべき所があったが、宮中の嫉妬を制せずに驚き憂えて病を得たと評する。

即位まで

孝宗(こうそう)の第三子である。荘文太子(そうぶんたいし)が死ぬと、孝宗(こうそう)は英武が自分に似ているとして太子にしようとしたが、順序が違うため遅らせ、1171年に兄の慶王(けいおう)を越えて皇太子とした。1187年に高(こう)宗(そう)が没すると庶務に加わり、1189年、孝宗(こうそう)が政に倦(う)んだとして位を譲り、再三辞退したのちに即位した。即位の日、妃の李氏(りし)が皇后に立てられた。

治世と最期

李(り)皇后(こうごう)は嫉妬が強く、高(こう)宗(そう)は皇甫(こうほ)坦(たん)に誤らされたと嘆き、孝宗(こうそう)はたびたび皇后を戒めた。1191年、李(り)皇后(こうごう)が黄貴妃(きひ)を殺して急死と届け、続く郊祀(こうし)は大風雨で礼を成さず、光宗(こうそう)は震え恐れて病を得て、以後は政を見なくなった。李(り)皇后(こうごう)伝によれば、孝宗(こうそう)が授けようとした薬を宦官(かんがん)が皇后に毒だと吹き込み、嘉王(かおう)の立太子を拒まれた皇后が孝宗(こうそう)に廃立の意があると訴えたため、光宗(こうそう)は孝宗(こうそう)のもとへ参らなくなった。1193年、重華宮(ちょうかきゅう)の孝宗(こうそう)のもとへ行こうとしたのを皇后が止め、陳傅良(ふりょう)が裾を引いて諫(いさ)めても聞かず、太学生(たいがくせい)ら二百余人の上書にも応じなかった。1194年に孝宗(こうそう)が没しても、光宗(こうそう)は病で喪を執らなかった。宰臣(さいしん)が嘉王(かおう)の立太子を請うと許したが、のちに長く位にあって退きたいという御筆(ぎょひつ)が返ってきた。同じ年、太皇太后(たいこうたいごう)の命で嘉王(かおう)が即位し、光宗(こうそう)は太上(たいじょう)皇帝とされた。趙(ちょう)汝愚(じょぐ)伝によれば、この内禅(ないぜん)は趙(ちょう)汝愚(じょぐ)が韓侂冑(たくちゅう)らを通じて太皇太后(たいこうたいごう)を動かしたものである。光宗(こうそう)紀(き)・寧宗(ねいそう)紀(き)・趙(ちょう)汝愚(じょぐ)伝のいずれにも、光宗(こうそう)が内禅(ないぜん)に同意したという記述は無い。1200年に寿康宮(じゅこうきゅう)で没した。

在位中の出来事(8件)

立后1189年2月18日即位当日(淳熙16年2月2日・壬戌)、孝宗(壽皇聖帝)の詔により元妃李氏(李鳳娘)を皇后に立てる。
大赦1189年2月20日即位直後、淳熙16年2月4日(甲子)に大赦。
改元1189年12月23日元号を「紹熙」とする
被反乱1190年浦城盜張海の乱
被反乱1192年宜州蠻の辺境侵犯
被反乱1192年瀘州騎射卒張信の乱
被反乱1193年叙州夷賊の辺境侵犯
被反乱1194年辰州徭賊の辺境侵犯

南宋の歴代皇帝

9名の一覧

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