
南宋第3代分裂期の王朝
孝宗趙眘
在位 1162年7月24日〜1189年2月18日(26年216日)
姓趙諱眘字元永
孝宗の人物データ
出典(死因・即位経路)
- 死因
- 宋史 本紀 巻三十五(孝宗三)
- 即位経路
- 宋史 本紀 巻三十五(孝宗三)
死因と即位経路を判定するときに読んだ正史の書名と巻です。
生涯
どんな皇帝か
太祖の子孫から高宗の養子に選ばれて位を譲られ、北伐に敗れたのち金と和議を結び、晩年は自らも位を譲った南宋の皇帝である。
即位まで
太祖の七世の孫で、秀王趙子偁の子である。1127年に秀州の官舎で生まれた。高宗の子の元懿太子が没して跡継ぎが無く、高宗は太祖の子孫から後継を選ぶ詔を下し、1132年に選ばれて宮中で育てられた。信王璩伝によれば、同じく太祖の子孫の伯玖も宮中で育てられ、二人は同じ礼で遇された。1160年に高宗の皇子に立てられて建王となり、1162年に皇太子となった。同じ年、高宗は自ら太上皇帝として退くことにし、孝宗は辞退を重ねたのちに即位した。
治世と最期
即位の翌月に岳飛の元の官を戻し、礼をもって改葬させた。1163年に北伐に出て李顕忠が宿州を取ったが、邵宏淵が援けず、両将の軍は符離で崩れた。金の求めに対し、孝宗は地と歳幣は与えてよいが名分は譲れないと述べた。1165年に、皇帝の称を改めて叔父と甥の国とし、歳幣を減らす和議がまとまった。本紀の賛は、符離の敗れのあとは高宗の命に背くことをはばかって軽々しく兵を出さなかったと評する。賛はまた、外から入って大統を継いだ君主でこれほど孝を尽くした者はないと称える。1189年に皇太子に位を譲って重華宮に移った。1194年に重華殿で没したが、本紀は病の名を記さない。光宗紀によれば、孝宗の病が重いとき、宰相らが光宗に見舞うよう請うても光宗は聴かなかった。
在位中の出来事(40件)
大赦1162年7月
改元1162年11月元号を「隆興」とする
被反乱1162年12月〜1163年3月廣西賊王宣の乱
立后1164年
被反乱1164年容州妖賊李雲の乱
改元1165年元号を「乾道」とする
大赦1165年
大赦1166年
被反乱1166年湖南盜の乱
被反乱1166年郴州盜李金の乱
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被反乱1166年淮北紅巾賊(蕭榮)の乱
大赦1167年
大赦1170年
被反乱1170年雅州沙平蠻の反乱
大赦1171年
被反乱1171年沅州徭人の蜂起
改元1173年元号を「淳熙」とする
大赦1173年
被反乱1174年茶寇賴文政の乱
被反乱1174年青羌奴兒結の乱
被反乱1174年吐蕃彌羌畜列の侵攻
大赦1175年
大赦1176年
立后1176年
被反乱1176年靖州徭人の反乱
被反乱1177年〜1178年黎州蠻の侵攻
被反乱1178年威州蠻の侵攻
大赦1179年
被反乱1179年郴州賊陳峒の乱
被反乱1179年廣西妖賊李接の乱
被反乱1181年潮州賊沈師の乱
被反乱1181年黎州五部落の侵攻
被反乱1181年黎州戍軍伍進の兵変
大赦1182年
被反乱1182年黎州土丁張百祥の乱
被反乱1184年安化蠻蒙光漸の侵攻
大赦1185年
大赦1186年
大赦1188年
被反乱日付不詳敘州賊大波浪の乱