
北宋第9代統一王朝
欽宗趙桓
在位 1126年1月19日〜1127年3月20日(1年60日)
姓趙諱桓
欽宗の人物データ
出典(死因・即位経路)
- 死因
- 金史 本紀五(海陵)
- 即位経路
- 宋史 本紀二十三(欽宗)
死因と即位経路を判定するときに読んだ正史の書名と巻です。
生涯
どんな皇帝か
父の徽宗から位を譲られて1年あまりで開封を金に落とされ、父とともに北へ連れ去られた北宋の最後の皇帝である。
即位まで
徽宗の長子で、1100年に生まれた。1126年の初め、金軍が迫るなかで徽宗が位を譲ると、皇太子は泣いて辞退し病にもなったが許されず、即位した。
治世と最期
同じ年に金軍に開封を攻められ、太原・中山・河間の三鎮を割き、宰相と親王を人質に出す約束をして、翌月に金軍を引き揚げさせた。1127年の初め、郭京という者が六甲の法で敵を破れると称して守兵を城から下ろし、門を開いて打って出て大敗し、都は落ちた。欽宗は再び金の陣営に出向き、金は張邦昌を楚の皇帝に立てた。その年のうちに欽宗は皇后と皇太子とともに北へ連れ去られ、宮廷の器物や図書も持ち去られた。金史によれば、1128年に父子は白い衣で金の太祖の廟に引き出され、欽宗は重昏侯の名を与えられ、のちに天水郡公に改められた。宋史の本紀は、1161年に崩御の知らせが届いたことだけを記し、いつどう死んだかは書かない。金史は1156年に天水郡公が亡くなったと記す。建炎以来系年要録には、金の使者が風疾で亡くなったと伝えた口上が載る一方、死を1160年に置く記事もある。撃毬の場で落馬して射殺されたという話は、大宋宣和遺事など正史の外の書にだけ出てきて、宋史と金史の本紀には無い。
在位中の出来事(5件)
立后1126年1月20日
改元1126年1月24日元号を「靖康」とする
大赦1126年3月7日
被反乱1126年9月福州軍乱
被反乱1126年12月奇兵の乱(開封包囲戦中の禁軍反乱)