
南宋第9代分裂期の王朝
端宗趙昰
在位 1276年6月14日〜1278年5月8日(1年328日)
姓趙諱昰
端宗の人物データ
出典(死因・即位経路)
- 死因
- 宋史 本紀 巻四十七(瀛国公二王附)
- 即位経路
- 宋史 本紀 巻四十七(瀛国公二王附)
死因と即位経路を判定するときに読んだ正史の書名と巻です。
生涯
どんな皇帝か
臨安が元に落ちたのち、福州で宋の主に立てられ、元軍に追われて海上を転々とするうちに没した南宋の皇帝である。
即位まで
度宗の庶子で、母は淑妃楊氏であり、弟の趙昺とは母が違う。1274年に度宗が没したとき、衆は年長の趙昰を立てるべきとしたが、賈似道が嫡子を立てるよう主張して恭帝が立った。1276年、元軍が臨安に迫ると益王に移され、伯顔が臨安に入ると、楊亮節らに背負われて山中に7日間隠れ、温州へ逃れた。温州の江心寺では、高宗が南へ逃れたときに立ち寄って寺に残った御座の下で人々が泣き、趙昰を天下兵馬都元帥に奉じた。同じ年、陳宜中らが福州で趙昰を宋の主に立てて景炎と改元し、母の楊淑妃も政を聴いた。
治世と最期
同じ年に海に入り、泉州の蒲寿庚に駐蹕を請われたが、張世傑はこれを退けた。のちに舟が足りず蒲寿庚の舟を奪ったため、蒲寿庚は怒って宗室や士大夫を殺し、趙昰は潮州へ移った。宋史の本紀は、1277年以降の記事を元の年号で書く。1277年、元帥の劉深の水軍に浅湾を攻められて秀山へ逃れ、陳宜中は占城に入ったまま戻らなかった。1278年の初め、井澳で颶風に船を壊されてあやうく溺れかけ、これがもとで病んだ。占城へ移ろうとして果たせず、碙洲に留まり、同じ年にそこで没した。陸秀夫伝は、群臣が散ろうとしたとき、陸秀夫が度宗の子がまだ一人いると説いて衛王の趙昺を立てたと記す。宋史の二王の記事は没年齢も諡も記さず、臣下が端宗と号したことだけを書く。続資治通鑑は没した年齢を記し、諡と廟号も伝える。元史の世祖本紀は趙昰の即位も死も書かず、碙洲へ逃れたことを弟の名で記す。
在位中の出来事(4件)
改元1276年6月14日元号を「景炎」とする
大赦1276年6月14日
被反乱1276年8月漳州亂
被反乱1276年8月興化石手軍亂