
南宋第6代分裂期の王朝
理宗趙昀
在位 1224年9月17日〜1264年11月16日(40年70日)
理宗の人物データ
出典(死因・即位経路)
- 死因
- 宋史 本紀 巻四十五(理宗五)
- 即位経路
- 宋史 本紀 巻四十一(理宗一)/宋史紀事本末「寧宗慶元四年」条
死因と即位経路を判定するときに読んだ正史の書名と巻です。
生涯
どんな皇帝か
史弥遠の手で寧宗の跡を継いだ南宋の皇帝で、モンゴルと組んで金を滅ぼしたが、その後モンゴルとの戦いを招いた。
即位まで
太祖の十世の孫で、父の希瓐はのちに栄王を追贈された。1221年、寧宗は貴和を皇子として竑と改名させ、理宗には沂王の後を継がせた。皇子の趙竑が丞相の史弥遠と不和になると、史弥遠は寧宗に趙竑の過ちを言い立てて理宗に目をかけ、鄭清之に理宗を教えさせた。1224年に寧宗の病が重くなると、史弥遠は詔と称して理宗を皇子とし、昀と改名させた。同じ年に寧宗が没すると、史弥遠は楊谷・楊石を楊皇后のもとへ入らせ、遺旨と称して趙竑を外へ出し、理宗に位を継がせた。楊皇后伝によれば、皇后は皇子は先帝が立てたと言って七度拒み、楊谷らが泣いて禍を説いてようやく折れ、趙竑は詔を偽って廃された。
治世と最期
1225年、湖州の潘壬らが趙竑を立てようとして鎮められると、史弥遠は医者を装わせた秦天錫を送って趙竑を死に追い込んだ。鎮王竑伝は、趙竑はもともと病でなく、州治で首をくくらされたと書く。1234年に金が滅び、金主の遺骨を得たことを太廟に告げた。同じ年に旧都の三京を取り戻そうと兵を出したが敗れ、本紀は趙范が趙葵・全子才の軽率を上言したとし、賈似道伝は逆に趙范の謀によるとする。1241年には周惇頤・張載・程顥・程頤・朱熹を孔子廟に従祀し、王安石を従祀から外した。1259年にはモンゴル軍が長江を渡り、翌年の初めに鄂州の囲みが解けたと賈似道が報じた。賈似道伝は、賈似道がひそかに臣と称して歳幣を申し出たが容れられず、憲宗の死後に改めて和を結んだとする。本紀は年次の記事では囲みが解けたことと戦功だけを記すが、賛では賈似道が納幣請和を隠したと書く。1264年に病で朝に出られなくなり、大赦の翌日に没した。本紀の賛は、史弥遠・丁大全・賈似道が威福をほしいままにしたと批判しつつ、理学を尊んだ功から理の廟号はふさわしいとする。