
南宋第5代分裂期の王朝
寧宗趙拡
在位 1194年7月24日〜1224年9月17日(30年63日)
姓趙諱拡
寧宗の人物データ
出典(死因・即位経路)
- 死因
- 宋史 本紀 巻四十(寧宗四)/東南紀聞(元代筆記)
- 即位経路
- 宋史 本紀 巻三十七(寧宗一)
死因と即位経路を判定するときに読んだ正史の書名と巻です。
生涯
どんな皇帝か
太皇太后の手で父の光宗に代わって位に就き、韓侂冑による金への北伐を許して敗れた南宋の皇帝である。
即位まで
光宗の第二子で、嘉王に封じられていた。1194年に孝宗が没したとき、父の光宗は病で喪に出られなかった。趙汝愚が韓侂冑を通じて、高宗の皇后だった太皇太后に嘉王への禅位を願い出た。嘉王は不孝の名を負うのを恐れると拒んだが、抱えられて黄袍を着せられ、即位した。
治世と最期
1206年、金に兵を出したが敗れ、のちに韓侂冑が軽々しく戦を始めたとして職を解く詔が出た。1207年、史彌遠らが密旨を受けて韓侂冑を玉津園で殺し、宋史の楊皇后伝は、この謀は皇后らから出て寧宗は初め知らなかったと書く。1208年、韓侂冑の首を箱に入れて金と和を結んだと宋史の賛は書く。1220年に皇太子が亡くなり、翌年に宗室の趙竑を皇子とした。1224年に福寧殿で没した。宋史の本紀は、崩御のあと史彌遠が遺詔を伝えて同じく宗室の趙昀を即位させたと書くが、理宗紀と続資治通鑑は、寧宗の病が重くなった崩御の前に史彌遠が詔と称して趙昀を皇子にしていたとする。楊皇后は初め廃立を拒んだが、説かれて詔を偽り、趙竑を済王に落とした。元の東南紀聞は、病の寧宗に史彌遠が金丹100粒を進め、まもなく没したと書くが、宋史と続資治通鑑にこの話は無い。
在位中の出来事(35件)
大赦1194年7月26日光宗禅位・寧宗即位に伴う大赦。
大赦1194年9月29日合祭天地于明堂に伴う大赦。
改元1194年12月9日元号を「慶元」とする
立后1196年皇后韓氏の冊立儀式。
大赦1197年祀天地于圜丘に伴う大赦。
被反乱1197年大奚山島民の乱
大赦1200年合祭天地于明堂に伴う大赦。
改元1201年元号を「嘉泰」とする
被反乱1201年〜1203年龍州蕃部の反乱
被反乱1201年〜1215年黎州蠻(畜卜)の反乱
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被反乱1202年〜1206年雅州蠻(高吟師)の反乱
大赦1203年祀天地于圜丘に伴う大赦。
立后1203年皇后楊氏の冊立儀式(御文德殿冊皇后)。
被反乱1204年瓊州西浮洞逃軍の乱
改元1205年元号を「開禧」とする
大赦1206年合祭天地于明堂に伴う大赦。
被反乱1206年〜1207年呉曦の反乱(僭位蜀王)
大赦1207年皇子曮(懤)を皇太子に立てたことに伴う大赦。
改元1208年元号を「嘉定」とする
被反乱1208年〜1211年郴州黒風峒寇(羅世傳・李元礪)の反乱
大赦1209年合祭天地于明堂に伴う大赦。
被反乱1211年〜1212年敘州蠻(酋米在)の反乱
大赦1212年祀天地于圜丘に伴う大赦。
被反乱1213年知思州田宗範の反乱
被反乱1213年虛恨蠻の侵寇
大赦1215年合祭天地于明堂に伴う大赦。
被反乱1217年〜1220年雅州蠻の反乱(第二次)
大赦1218年合祭天地于明堂に伴う大赦。
被反乱1219年興元軍士権興の乱
被反乱1219年張福・莫簡の紅巾軍の乱
被反乱1220年漣水忠義軍統轄石珪の反乱
大赦1221年合祭天地于明堂に伴う大赦。
被反乱1221年〜1223年京東安撫張林の反乱
大赦1222年
被反乱日付不詳楚州渠賊胡海の乱