
北宋第1代統一王朝
太祖趙匡胤
在位 960年2月4日〜976年11月14日(16年288日)
姓趙諱匡胤
太祖の人物データ
出典(死因・即位経路)
- 死因
- 宋史 本紀三(太祖三)/続資治通鑑長編 巻十七(湘山野録所引)
- 即位経路
- 宋史 本紀一(太祖一)/涑水記聞
死因と即位経路を判定するときに読んだ正史の書名と巻です。
生涯
どんな皇帝か
後周の禁軍を率いる立場から位を譲り受け、宋を建てた皇帝である。荊南・湖南・後蜀・南漢・南唐を次々に下した。宋史の賛は、藩鎮から兵権を取り上げ、汚職の官吏を重い法で縛ったことを治績に挙げる。
即位まで
後周の世宗は北征の途中で、点検が天子になると書かれた木片を見つけて怪しみ、病んで都に戻ると、張永徳に代えて太祖を殿前都点検に就けた。960年、出陣した太祖が陳橋駅に泊まると、明け方に諸将が刃を手に庭に並び、黄色の衣を着せて万歳を唱えた。都では陶穀が恭帝の禅位の詔を取り出し、太祖は崇元殿で即位した。
治世と最期
宋史の石守信伝によれば、太祖は宴席で石守信らに、部下に黄色の衣を着せられたらどうするのかと説き、翌日、石守信らは病を理由に兵権を返上した。976年の冬、万歳殿で夜に没した。本紀は死の前に病の記事を置かず、死因も書かないが、続資治通鑑長編はこの前に太祖が病んでいたと記す。位は弟の太宗が継ぎ、宋史は母の杜太后の遺命に従ったと記す。李燾の続資治通鑑長編は、死の夜に太祖が弟を呼び、燭の影の中で弟がときおり席を外し、太祖が柱斧で地を突いて、しっかりやれと言ったという話を載せる。李燾はこの話を僧文瑩の湘山野録から引いたと注記し、正史にも実録にも無いと断っている。長編はさらに、宋皇后が皇子の徳芳を呼ばせたのに、使いの王継恩が太宗を呼びに行ったことも記す。宋史の太宗本紀の賛は、太祖の死の年のうちに改元したことなどを挙げ、後世の議論は免れないと書いている。
在位中の出来事(22件)
改元960年2月4日元号を「建隆」とする
大赦960年2月4日
被反乱960年4月〜960年6月李筠の乱
親征960年5月〜960年7月李筠(昭義軍節度使、潞州・澤州)
大赦960年7月19日建隆元年六月辛卯、昭義軍節度使李筠の叛乱を潞州で平定した後、大赦(減死罪、附潞三十里の今年租免除、陣歿将校子孫の録用、丁夫の給復三年)を布告。
立后960年9月10日建隆元年八月甲申、琅琊郡夫人王氏(後の孝明皇后)を皇后に冊立。
親征960年10月〜960年12月李重進(淮南節度使、揚州)
被反乱960年10月〜960年11月李重進の乱
改元963年元号を「乾徳」とする
大赦963年
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被反乱964年汪端の乱
被反乱964年呂翰の乱
大赦965年乾德三年五月戊子、後蜀平定・孟昶入朝を受けて大赦(減死罪一等)を布告。
被反乱965年両川群盗の蜂起
改元968年元号を「開宝」とする
大赦968年
立后968年開寶元年二月、左衛上将軍宋偓の娘・宋氏(後の孝章皇后、当時17歳)を宮中に納れて皇后に冊立。
親征969年北漢(太原)
大赦971年開寶四年十一月己未、南郊祭祀にあわせ大赦を布告(十悪・故劫殺・官吏受贓の罪は原さず)。
被反乱972年邕・容州獠人の乱
大赦976年2月7日開寶九年正月壬申、明徳門にて南唐後主李煜の降伏を受けた後に大赦(減死罪一等)を布告。
大赦976年5月5日開寶九年四月庚子、西京洛陽での圜丘祭祀の後、五鳳樓に還御して大赦を布告(十悪・故殺の罪は原さず、流配・逋欠は放免)。
北宋の歴代皇帝
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