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南唐(なんとう)(五代十国(ごだいじっこく))第1代分裂期の王朝

烈祖(れつそ)李昪(りべん)

在位 937年11月10日〜943年3月30日(5年141日)

姓李(り)諱昪(べん)字正倫(せいりん)幼名彭奴(ほうど)

烈祖の人物データ

生年
889年1月7日
在位
  • 937年11月10日〜943年3月30日
在位 5年141日長さは365名中184位
没年
943年3月30日56歳(数え年)267名中長寿順51位タイ
死因
病死365名中167名
即位経路
受禅(易姓)
先代
  • 睿帝呉・五代十国烈祖と睿帝に血縁はない
次代
  • 元宗南唐元宗は烈祖の子
目立つ記録
  • 皇太子廃立1回(27名中4位タイ)

出典(死因・即位経路)

死因
陸游『南唐書』巻一(烈祖本紀)・巻十六(萧俨伝)
即位経路
新五代史(南唐世家)

死因と即位経路を判定するときに読んだ正史の書名と巻です。

生涯

どんな皇帝か

李昪(りべん)は徐州(じょしゅう)の人で、楊行密(ようこうみつ)に養われたのち徐温(じょおん)の子となり、937年に呉の譲りを受けて帝位に即いて南唐(なんとう)を建てた。943年に五十六歳で没し、廟号(びょうごう)は烈祖(れつそ)とされた。

即位まで

新五代史(しんごだいし)は、李昪(りべん)は幼くして孤となり、楊行密(ようこうみつ)に容貌を奇として養子にされたが、楊氏(ようし)の諸子が受け入れず、徐温(じょおん)に与えられて徐知誥(ちこう)と名づけられたと記す。徐知訓(ちくん)が朱瑾(きん)に殺されると、潤州(じゅんしゅう)にいた李昪(りべん)が先に知って州兵を率いて江を渡り、乱を定めて政を得た。李昪(りべん)は鏡で白いひげを見て、功業は成ったが老いたと吏の周宗に嘆き、周宗が宋(そう)斉丘(せいきゅう)に禅代(ぜんだい)を図ると、斉丘(せいきゅう)は時期尚早として周宗を斬るよう請い、李昪(りべん)は周宗を左遷(させん)した。937年、呉主(ごしゅ)楊溥(ようふ)が楊(よう)璘(りん)に命じて位を李昪(りべん)に伝えさせた。国号を、新五代史(しんごだいし)は斉、資治通鑑(しじつがん)は唐とする。

治世と最期

即位の翌年、李昪(りべん)は楊溥(ようふ)を潤州(じゅんしゅう)の丹陽宮(たんようきゅう)に移し、兵で守らせた。李昪(りべん)が李氏(りし)に復した経緯を、新五代史(しんごだいし)は徐氏(じょし)の子らが請うたとし、資治通鑑(しじつがん)は938年に趙(ちょう)可封(かほう)が、939年に江王(こうおう)知証(ちしょう)らが請い、唐主(とうしゅ)が許したとする。出自は書により異なり、新五代史(しんごだいし)は李昪(りべん)が唐の憲宗(けんそう)の子建王(けんおう)恪(かく)の四世孫と自称したとする。資治通鑑(しじつがん)は、李昪(りべん)が太宗(たいそう)の子呉王(ごおう)恪(かく)を祖と定めたが、その系譜の名はみな役人が作ったものだったと記す。考異(こうい)は、永王(えいおう)璘(りん)の裔や薛王(せつおう)知柔(ちじゅう)の子とする説、潘氏(はんし)とする呉越備史(ごえつびし)の説も挙げる。942年、呉越で宮室が焼けたとき、群臣は乗じて攻めるよう請うたが、李昪(りべん)は許さず、弔問して乏しきを助けた。新五代史(しんごだいし)は、李昪(りべん)の志は呉の旧地を守るだけで進取の策は無く、呉人はそのおかげで休息できたと評す。のち、方士(ほうし)の史守沖(しゅちゅう)が献じた丹方(たんぽう)を、李昪(りべん)は神として服し、次第に躁急(そうきゅう)になった。資治通鑑(しじつがん)は、疾が重くなると李昪(りべん)が李璟(りけい)を呼び、金石(きんせき)を服して寿を益そうとしてかえって生を傷った、汝(なんじ)は戒めよと告げて、その夜に没したと記す。新五代史(しんごだいし)には、没年と諡号(しごう)・廟号(びょうごう)・陵名(りょうめい)の記述があるだけで、死因を書かない。

在位中の出来事(5件)

改元937年11月元号を「升元」とする
大赦937年11月升元元年十月甲申、呉から禅譲を受け皇帝に即位すると同時に大赦を実施。
立后937年11月皇帝即位直後の升元元年(937年)冬(十月〜十一月の間)、王后宋氏(後の元敬皇后)を皇后に冊立。
大赦939年升元三年四月辛巳、南郊にて高祖神尧皇帝を配祀する郊祀の礼を行い、癸未(礼を終えた直後)に大赦。
皇太子廃立940年升元四年八月丁巳、斉王李璟(後の元宗)を皇太子に立てたが、璟自身が固辞。

南唐の歴代皇帝

2名の一覧

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