南唐(五代十国)第1代分裂期の王朝
烈祖李昪
在位 937年11月10日〜943年3月30日(5年141日)
烈祖の人物データ
出典(死因・即位経路)
- 死因
- 陸游『南唐書』巻一(烈祖本紀)・巻十六(萧俨伝)
- 即位経路
- 新五代史(南唐世家)
死因と即位経路を判定するときに読んだ正史の書名と巻です。
生涯
どんな皇帝か
李昪は徐州の人で、楊行密に養われたのち徐温の子となり、937年に呉の譲りを受けて帝位に即いて南唐を建てた。943年に五十六歳で没し、廟号は烈祖とされた。
即位まで
新五代史は、李昪は幼くして孤となり、楊行密に容貌を奇として養子にされたが、楊氏の諸子が受け入れず、徐温に与えられて徐知誥と名づけられたと記す。徐知訓が朱瑾に殺されると、潤州にいた李昪が先に知って州兵を率いて江を渡り、乱を定めて政を得た。李昪は鏡で白いひげを見て、功業は成ったが老いたと吏の周宗に嘆き、周宗が宋斉丘に禅代を図ると、斉丘は時期尚早として周宗を斬るよう請い、李昪は周宗を左遷した。937年、呉主楊溥が楊璘に命じて位を李昪に伝えさせた。国号を、新五代史は斉、資治通鑑は唐とする。
治世と最期
即位の翌年、李昪は楊溥を潤州の丹陽宮に移し、兵で守らせた。李昪が李氏に復した経緯を、新五代史は徐氏の子らが請うたとし、資治通鑑は938年に趙可封が、939年に江王知証らが請い、唐主が許したとする。出自は書により異なり、新五代史は李昪が唐の憲宗の子建王恪の四世孫と自称したとする。資治通鑑は、李昪が太宗の子呉王恪を祖と定めたが、その系譜の名はみな役人が作ったものだったと記す。考異は、永王璘の裔や薛王知柔の子とする説、潘氏とする呉越備史の説も挙げる。942年、呉越で宮室が焼けたとき、群臣は乗じて攻めるよう請うたが、李昪は許さず、弔問して乏しきを助けた。新五代史は、李昪の志は呉の旧地を守るだけで進取の策は無く、呉人はそのおかげで休息できたと評す。のち、方士の史守沖が献じた丹方を、李昪は神として服し、次第に躁急になった。資治通鑑は、疾が重くなると李昪が李璟を呼び、金石を服して寿を益そうとしてかえって生を傷った、汝は戒めよと告げて、その夜に没したと記す。新五代史には、没年と諡号・廟号・陵名の記述があるだけで、死因を書かない。
在位中の出来事(5件)
南唐の歴代皇帝
2名の一覧- 第1代烈祖937–943年病死
- 第2代元宗943–958年病死