本文へスキップ

呉(ご)・五代十国(ごだいじっこく)第4代分裂期の王朝

睿帝(えいてい)楊溥(ようふ)

在位 927年11月29日〜937年11月10日(9年349日)

姓楊(よう)諱溥(ふ)

睿帝の人物データ

生年
不詳
在位
  • 927年11月29日〜937年11月10日
在位 9年349日長さは365名中135位
没年
938年11月
死因
諸説あり365名中15名
即位経路
擁立帝号を新たに称した
先代
  • 楊隆演睿帝は楊隆演の弟
次代
  • 烈祖南唐烈祖と睿帝に血縁はない

出典(死因・即位経路)

死因
十国春秋 巻2(睿帝本紀、諸書引用を含む)
即位経路
新五代史 巻61(呉世家第一)/十国春秋 巻2(睿帝本紀・臨川王蒙伝)

死因と即位経路を判定するときに読んだ正史の書名と巻です。

生涯

どんな皇帝か

徐氏に擁立されて呉の皇帝となり、のちに徐知誥へ位を譲った呉の最後の皇帝である。

即位まで

呉を建てた楊行密の子で、新五代史は第四子、旧五代史は末子と書く。新五代史によれば、兄の楊隆演が没したとき、次に立つべき兄の楊濛を差し置いて、成人した君主を嫌う徐氏が睿帝を立てた。927年、大丞相の徐温が皇帝に即くよう勧めたが、返事をしないうちに徐温が病死し、その年のうちに睿帝は帝位に即いて乾貞と改元した。

治世と最期

実権は徐温の養子の徐知誥が握り、兄弟の徐知詢を広陵に留め置き、睿帝の兄の楊濛も兵で見張らせた。935年に徐知誥は天下兵馬大元帥となって斉王に封じられ、937年、睿帝は斉王に禅位した。その後の死は書によって書き方が分かれる。新五代史は禅位に続けて、丹陽で亡くなったとだけ書き、旧五代史は丹陽宮に移されて羽衣を着て穀断ちの術を習い、1年あまりで幽閉のうちに死んだと書く。五国故事は、楼上で経を読んでいたところへ使者が進み出て、睿帝は香炉を投げつけたがまもなく殺されたと記し、清の十国春秋はこの話を本文に採っている。資治通鑑は亡くなったとだけ書き、考異で、幽閉死、天寿、南唐の手による殺害と諸書の説が分かれていて明らかでないためだと述べる。楊氏の子孫は海陵に移されて外との行き来を断たれ、956年に南唐の李璟が送った者に一族を殺された。

在位中の出来事(8件)

改元927年12月元号を「乾貞」とする
大赦927年12月乾貞元年十一月庚戌、文明殿にて皇帝に即位。
大赦928年乾貞二年秋八月乙未、大赦。
改元929年元号を「太和」とする
大赦929年太和元年(十一月頃、壬辰)、尊号『睿聖文明光孝皇帝』を加え、大赦と同時に改元(太和)。
立后931年太和五年九月甲戌朔、德妃王氏を皇后に立てる。
改元935年元号を「天祚」とする
大赦935年天祚元年九月丙申、尊号『睿聖文明光孝應天道廣德皇帝』を加え、大赦と同時に太和七年を天祚元年に改元。

即位経路が「擁立」の97名をデータベースで見る

収録基準・各項目の数え方・出典はこのサイトについてを、ほかの皇帝は皇帝一覧をご覧ください。