南漢(五代十国)第5代分裂期の王朝
後主劉鋹
在位 958年9月18日〜971年3月4日(12年170日)
後主の人物データ
出典(死因・即位経路)
- 死因
- 宋史 巻4(太宗本紀)/宋史 巻481(列伝・劉鋹伝)
- 即位経路
- 十国春秋 巻60(南漢後主本紀)
死因と即位経路を判定するときに読んだ正史の書名と巻です。
生涯
どんな皇帝か
劉鋹は南漢の中宗劉晟の長子で、958年に即位した最後の皇帝である。971年に宋に降り、980年に没した。
即位まで
新五代史は、劉鋹は劉晟の長子で初名は継興、衛王に封ぜられ、劉晟が死ぬと長子として位に就き、大宝と改元したと記す。資治通鑑は、劉鋹の年齢を十六歳とし、国事は宦官の龔澄枢らが決したと記す。
治世と最期
新五代史は、劉鋹を父よりさらに愚かだとし、群臣には家と子孫があって忠を尽くせないが宦官は親近して任せられると考え、政を宦官に委ねたと記す。宦官の陳延寿が女巫の樊胡子を引き入れ、樊胡子は玉皇が降りたと称して劉鋹を太子皇帝と呼び、国事はみな樊胡子が決した。宦官の許彦真が鍾允章を謀反と告げると、劉鋹は允章を獄に下し、一族ともども誅した。陳延寿が、先帝が位を伝えたのは群弟を殺し尽くしたからだと勧めると、劉鋹はこれを是として弟の桂王璇興を殺した。宋史は、劉鋹は性が昏懦で、政を龔澄枢と才人の盧瓊仙に委ね、可否の判断はみな瓊仙が指示したと記す。新五代史は、971年、宋軍が迫ると龔澄枢らが、北師は宝貨を利とするだけだ、焚いて空城にすれば帰ると謀り、府庫と宮殿が焚かれたと記す。宋史は、城が破れると劉鋹自身が府庫を焼いたと書く。同書は、劉鋹が海舶に珍宝と嬪御を載せて海へ出ようとしたが、宦官の楽範が船を盗んで逃げたと記す。新五代史は、白田に至った宋軍に劉鋹が素衣で白馬に乗って降り、京師に献俘されて恩赦侯に封じられたと記す。劉鋹は江陵で、このような話を聞かなかった、今日始めて祖宗の山河と大朝の境土を知ったと嘆いて涙を流した。宋史は、太祖が呂余慶に府庫を焼いた罪を問わせると、劉鋹は罪を龔澄枢らに帰したと記す。翌日、明徳門で詔に責められた劉鋹は、在国のとき自分は臣下で澄枢が国主だったと答えた。宋史は、劉鋹が980年に三十九歳で没し、南越王に追封されたと記す。確かめた諸書には病名や死因が無く、廟号と諡号も記されていない。
在位中の出来事(2件)
南漢の歴代皇帝
4名の一覧- 第2代高祖917–942年病死
- 第3代殤帝942–943年暗殺
- 第4代中宗943–958年病死
- 第5代後主958–971年病死