南漢(五代十国)第2代分裂期の王朝
高祖劉龑
在位 917年9月5日〜942年6月10日(24年284日)
姓劉諱龑
高祖の人物データ
出典(死因・即位経路)
- 死因
- 新五代史 巻65(南漢世家第五)
- 即位経路
- 新五代史 巻65(南漢世家第五)
死因と即位経路を判定するときに読んだ正史の書名と巻です。
生涯
どんな皇帝か
兄の地位を継いで南漢を建て、苛酷な刑罰で知られた五代十国の皇帝である。
即位まで
劉謙の庶子で、初名を岩という。兄の劉隠が南海に鎮すると副使となり、劉隠が没すると代わって立った。劉隠の死を新五代史と資治通鑑は911年とし、旧五代史は910年とする。917年に番禺で皇帝の位に即いて国号を大越とし、翌年に南郊で天を祀って国号を漢と改めた。旧五代史は初めから国号を大漢としており、大越を経たことを書かない。
治世と最期
新五代史は劉龑を聡明だが苛酷とし、身体を切り裂く刑を設けて、人が殺されるのを見ると喜びを抑えられなかったと記す。資治通鑑は、毒蛇を放った水に罪人を投げ込む水獄があったと記す。家はもと咸秦の出だと称して蛮夷の王であることを恥じ、唐の天子を洛州刺史と呼んだ。926年の初め、白龍が現れたとして元号を白龍と改め、名を龔と改めた。交州をめぐっては、討伐に出た程宝が戦死し、のちに送った子の洪操も呉権が海中に植えた鉄杭に阻まれて戦死した。病床では驕った秦王・晋王を外に出して年少の越王を立てようとしたが、蕭益に長子を立てるよう諫められて取りやめた。942年に没し、廟号は高祖とされた。
在位中の出来事(9件)
改元917年9月元号を「乾亨」とする
大赦917年9月乾亨元年秋八月癸巳、番禺にて皇帝即位(国号大越)と同時に大赦。
大赦918年
立后919年乾亨三年春正月、越国夫人馬氏(楚王馬殷の娘)を皇后に冊立。
改元926年元号を「白龍」とする
改元928年元号を「大有」とする
大赦928年
被反乱931年楊廷藝の反乱(愛州・交州の離反)
大赦937年大有十年春三月、帝が病気快復したことにより大赦。
南漢の歴代皇帝
4名の一覧- 第2代高祖917–942年病死
- 第3代殤帝942–943年暗殺
- 第4代中宗943–958年病死
- 第5代後主958–971年病死