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桀燕(けつえん)(五代十国(ごだいじっこく))第1代分裂期の王朝

劉守光(りゅうしゅこう)

在位 911年9月8日〜914年1月4日(2年119日)

姓劉(りゅう)諱守光(しゅこう)

劉守光の人物データ

生年
不詳
在位
  • 911年9月8日〜914年1月4日
在位 2年119日長さは365名中247位
没年
914年2月16日
死因
処刑非業の死・365名中34名
即位経路
自立帝号を新たに称した
先代
—
次代
—

出典(死因・即位経路)

死因
新五代史 巻39(劉守光伝)
即位経路
新五代史 巻39(劉守光伝)

死因と即位経路を判定するときに読んだ正史の書名と巻です。

生涯

どんな皇帝か

父の劉仁恭を幽閉し、兄の劉守文を殺して幽州を握り、大燕皇帝を称したが、晋に攻め落とされて晋陽で斬られた。

即位まで

深州楽寿の人で、父の劉仁恭は幽州の李可挙に仕えていた。父の愛妾と通じて笞打たれ、追放された。907年、後梁の李思安が幽州を攻めると、大安山にいた父に代わって城に入って撃退し、自ら盧龍節度使を称して父を捕らえ幽閉した。兄の劉守文が兵を挙げると、戦場でわが弟を殺すなと呼んだ兄を擒え、新五代史によればやがて殺した。資治通鑑は、人をやってひそかに兄を殺させ、罪を下手人に着せて誅したとする。鉄の籠に人を入れて火で炙り、皮膚を剥いで殺したため、燕の士人は他国へ逃れた。晋王の李存勗らに尚父に推されると、自分が尚父なら誰が帝となるのかと怒った。911年、大燕皇帝を称して応天と改元した。

治世と最期

翌年、晋の周徳威が燕を攻め、劉守光は年を越えて囲まれ、戦うたびに敗れた。李存勗が自ら幽州に臨むと降伏を口にしたが、寵臣の李小喜に止められ、その夜に李小喜が晋に寝返って城は破られた。劉守光は妻子を連れて逃げたが道に迷い、妻に農家で食を乞わせたところを怪しまれて捕らえられた。逃げた先を新五代史は滄州とし、旧五代史の列伝は関南の劉守奇を頼ろうとしたとする。降伏を止めたのは李小喜だと劉守光が訴え、召された李小喜が父を囚え兄を殺したのも自分の教えかと言い返すと、李存勗は怒って李小喜を先に斬らせた。劉守光が命乞いをすると、二人の妻は生きて何になろうと罵り、ともに死んだ。資治通鑑はこの処刑を晋陽に戻った4日後とし、旧五代史の荘宗紀は晋陽に着いたその日とする。

在位中の出来事(1件)

改元911年9月8日元号を「応天」とする

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