前蜀(五代十国)第2代分裂期の王朝
後主王衍
在位 918年7月12日〜925年12月15日(7年158日)
後主の人物データ
出典(死因・即位経路)
- 死因
- 旧五代史(荘宗紀)/十国春秋 巻36(後主本紀)
- 即位経路
- 十国春秋 巻35-36(前蜀高祖本紀下・後主本紀)
死因と即位経路を判定するときに読んだ正史の書名と巻です。
生涯
どんな皇帝か
王衍は前蜀の初代王建の最年少の子で、918年に父が没した翌日に帝位に即いた。925年に後唐に降り、翌年、秦川駅で一族とともに殺された。
即位まで
資治通鑑によれば、王建は雅王宗輅か信王宗杰を立てようとしていたが、913年に最年少の王衍を皇太子に立てた。王衍の母は寵愛された徐賢妃で、唐文扆が張格に上表させ、建が相者に諸子を見させると、相者も意を迎えて王衍の相が最も貴いと言った。新五代史は、徐妃と唐文扆が相者にそう言わせたとする。新五代史も、王衍は最年少ながら母の徐氏の寵によって皇太子に立てられたと記す。918年、王建が没した翌日に王衍が帝位に即き、徐賢妃を太后、徐淑妃を太妃に尊んだ。
治世と最期
王衍は若くして荒淫で、政治を宦者の宋光嗣らに委ね、宣華苑を造って日夜酒宴に耽った。嘉王宗寿が社稷を言って涙を流しても、王衍は顧みなかった。即位の翌年に乾徳と改元し、新五代史は、その翌年の冬の北巡の帰りに龍舟が江に輝き、供応のため人は命に堪えなかったと記す。後唐の荘宗が梁を滅ぼすと蜀人は恐れた。荘宗が遣わした李厳は成都の富盛と王衍の驕淫を見て、帰ると蜀を伐つ策を献じた。王衍は王承休の妻の厳氏のために秦州へ行幸しようとして群臣の切諫を聴かず、綿谷に至ったところで後唐軍が国境に入り、懼れて成都へ戻った。王衍は王宗弼に綿谷を守らせ、王宗勲らに唐軍を防がせたが、宗勲らは三泉で退走した。宗弼は誅せよとの詔に逆らって唐軍に款を送った。成都に戻った王衍は群臣と対泣した。宗弼は韓昭や宋光嗣らを捕えて殺し、首を継岌に送り、王衍は上表して降伏を乞うた。荘宗は王衍に、必ず人を険に薄しないと約した。王衍が東へ向かって秦川駅まで来たとき、荘宗は景進の計により、向延嗣に王衍の族を誅させた。殺された時期を、新五代史の本紀と世家は別の月に置く。のち荘宗の跡を継いだ明宗は、王衍に順正公を追封し、諸侯の礼で葬った。
在位中の出来事(8件)
前蜀の歴代皇帝
2名の一覧- 第1代高祖907–918年病死
- 第2代後主918–925年処刑