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前蜀(ぜんしょく)(五代十国(ごだいじっこく))第1代分裂期の王朝

高祖(こうそ)王建(おうけん)

在位 907年11月3日〜918年7月11日(10年253日)

姓王(おう)諱建(けん)字光図(こうと)

高祖の人物データ

生年
847年
在位
  • 907年11月3日〜918年7月11日
在位 10年253日61歳で即位(数え年)・長さは365名中127位
没年
918年7月11日72歳(数え年)267名中長寿順8位
死因
病死365名中167名
即位経路
自立帝号を新たに称した
先代
—
次代
  • 後主前蜀後主は高祖の子
目立つ記録
  • 皇太子廃立1回(27名中4位タイ)

出典(死因・即位経路)

死因
十国春秋 巻35(前蜀高祖本紀下)/新五代史 巻63(前蜀世家第三)
即位経路
新五代史 巻63(前蜀世家第三)

死因と即位経路を判定するときに読んだ正史の書名と巻です。

生涯

どんな皇帝か

唐末に四川(しせん)一帯を押さえ、唐が滅ぶと帝を称して前蜀(ぜんしょく)を建てた皇帝である。

即位まで

新五代史(しんごだいし)によれば、若いころは牛の屠殺(とさつ)や驢馬(ろば)泥棒、塩の密売で暮らし、郷里で賊王八(ぞくおうはち)と呼ばれていた。出身地を新五代史(しんごだいし)は許州(きょしゅう)舞陽(ぶよう)、旧五代史(きゅうごだいし)は陳州(ちんしゅう)項城(こうじょう)と書き、二つの書で食い違う。忠武軍(ちゅうぶぐん)の兵から身を起こして都頭(ととう)となり、唐の僖宗(きそう)のもとへ走って宦官(かんがん)田令孜(れいし)の養子になった。僖宗(きそう)が興元(こうげん)へ逃れる途中、焼けかけた桟道で馬を引いて抜け、眠る僖宗(きそう)に膝を貸して、目覚めた僖宗(きそう)から御衣を与えられた。のちに成都(せいと)を囲み、田令孜(れいし)から節度使(せつどし)の印を渡されて城に入った。両川(りょうせん)と山南西道(さんなんせいどう)、三峡(さんきょう)を併せたうえで、907年に唐が滅ぶと皇帝の位に即いた。

治世と最期

盗賊上がりだったが士人を厚く遇し、帝号(ていごう)を立てたときには唐の名臣や名家の出の者を用いた。晩年は徐氏(じょし)の姉妹を寵愛(ちょうあい)し、宦官(かんがん)の唐文扆(ぶんい)が禁軍(きんぐん)を握って、高祖(こうそ)が病むと古参の将を除こうとした。資治通鑑(しじつがん)によれば、高祖(こうそ)は永平(えいへい)の末から病んで意識が朦朧(もうろう)とし、918年に重くなって没した。新五代史(しんごだいし)・旧五代史(きゅうごだいし)・資治通鑑(しじつがん)の本文は毒殺に触れない。資治通鑑(しじつがん)の考異(こうい)は北夢瑣言(ほくむさげん)を引いて、唐文扆(ぶんい)らが焼餅に毒を入れて進めたという話を載せるが、劉(りゅう)恕(じょ)は唐文扆(ぶんい)が退けられてから27日後に高祖(こうそ)が死んでいるとして、この話は誤りではないかと疑っている。清の十国春秋(じっこくしゅんじゅう)も痢を病んで死んだと本文に書き、毒殺の話は別説として添えている。

在位中の出来事(20件)

改元908年元号を「武成」とする
大赦908年武成元年正月壬午(正月十日)、南郊にて天地を祀り、大赦境内・改元して武成元年とする。
立后908年武成元年八月丙子、皇后周氏を冊立。
親征910年岐(李茂貞)
改元911年元号を「永平」とする
大赦911年武成三年十二月辛巳、大赦し翌年を永平元年と改元する詔を発す。
大赦912年永平二年五月己丑、大赦境内(改元とは無関係の独立した大赦)。
大赦913年永平三年二月壬午、大赦(独立した大赦)。
皇太子廃立913年
被反乱913年元膺(皇太子、本名宗懿)の反乱
残り10件を表示
大赦915年永平五年正月己亥、得賢門にて蛮(南蛮)の捕虜を受け、大赦(独立した大赦)。
大赦915年永平五年十一月壬戌、宮中火災(己未夜)の後、大赦(独立した大赦)。
改元916年元号を「通正」とする
大赦916年永平五年十二月丁未、大安門にて秦・鳳・階・成四州平定の捕虜を受け、大赦境内・翌年を通正元年と改元する詔を発す。
改元917年元号を「天漢」とする
大赦917年
大赦917年
改元918年1月23日元号を「光天」とする
大赦918年1月23日天漢元年十二月癸丑、劉知俊を誅殺した後、大赦し翌年を光天元年・国号を蜀に復す詔を発す。
大赦918年2月14日光天元年正月乙亥朔、大赦し国号を蜀に復す(前年十二月の詔とは別に、新年当日にも改めて大赦)。

前蜀の歴代皇帝

2名の一覧

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