前蜀(五代十国)第1代分裂期の王朝
高祖王建
在位 907年11月3日〜918年7月11日(10年253日)
姓王諱建字光図
高祖の人物データ
出典(死因・即位経路)
- 死因
- 十国春秋 巻35(前蜀高祖本紀下)/新五代史 巻63(前蜀世家第三)
- 即位経路
- 新五代史 巻63(前蜀世家第三)
死因と即位経路を判定するときに読んだ正史の書名と巻です。
生涯
どんな皇帝か
唐末に四川一帯を押さえ、唐が滅ぶと帝を称して前蜀を建てた皇帝である。
即位まで
新五代史によれば、若いころは牛の屠殺や驢馬泥棒、塩の密売で暮らし、郷里で賊王八と呼ばれていた。出身地を新五代史は許州舞陽、旧五代史は陳州項城と書き、二つの書で食い違う。忠武軍の兵から身を起こして都頭となり、唐の僖宗のもとへ走って宦官田令孜の養子になった。僖宗が興元へ逃れる途中、焼けかけた桟道で馬を引いて抜け、眠る僖宗に膝を貸して、目覚めた僖宗から御衣を与えられた。のちに成都を囲み、田令孜から節度使の印を渡されて城に入った。両川と山南西道、三峡を併せたうえで、907年に唐が滅ぶと皇帝の位に即いた。
治世と最期
盗賊上がりだったが士人を厚く遇し、帝号を立てたときには唐の名臣や名家の出の者を用いた。晩年は徐氏の姉妹を寵愛し、宦官の唐文扆が禁軍を握って、高祖が病むと古参の将を除こうとした。資治通鑑によれば、高祖は永平の末から病んで意識が朦朧とし、918年に重くなって没した。新五代史・旧五代史・資治通鑑の本文は毒殺に触れない。資治通鑑の考異は北夢瑣言を引いて、唐文扆らが焼餅に毒を入れて進めたという話を載せるが、劉恕は唐文扆が退けられてから27日後に高祖が死んでいるとして、この話は誤りではないかと疑っている。清の十国春秋も痢を病んで死んだと本文に書き、毒殺の話は別説として添えている。
在位中の出来事(20件)
改元908年元号を「武成」とする
大赦908年武成元年正月壬午(正月十日)、南郊にて天地を祀り、大赦境内・改元して武成元年とする。
立后908年武成元年八月丙子、皇后周氏を冊立。
親征910年岐(李茂貞)
改元911年元号を「永平」とする
大赦911年武成三年十二月辛巳、大赦し翌年を永平元年と改元する詔を発す。
大赦912年永平二年五月己丑、大赦境内(改元とは無関係の独立した大赦)。
大赦913年永平三年二月壬午、大赦(独立した大赦)。
皇太子廃立913年
被反乱913年元膺(皇太子、本名宗懿)の反乱
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大赦915年永平五年正月己亥、得賢門にて蛮(南蛮)の捕虜を受け、大赦(独立した大赦)。
大赦915年永平五年十一月壬戌、宮中火災(己未夜)の後、大赦(独立した大赦)。
改元916年元号を「通正」とする
大赦916年永平五年十二月丁未、大安門にて秦・鳳・階・成四州平定の捕虜を受け、大赦境内・翌年を通正元年と改元する詔を発す。
改元917年元号を「天漢」とする
大赦917年
大赦917年
改元918年1月23日元号を「光天」とする
大赦918年1月23日天漢元年十二月癸丑、劉知俊を誅殺した後、大赦し翌年を光天元年・国号を蜀に復す詔を発す。
大赦918年2月14日光天元年正月乙亥朔、大赦し国号を蜀に復す(前年十二月の詔とは別に、新年当日にも改めて大赦)。
前蜀の歴代皇帝
2名の一覧- 第1代高祖907–918年病死
- 第2代後主918–925年処刑