
許(隋末)第1代分裂期の王朝
宇文化及
在位 618年10月23日〜619年3月18日(146日)
姓宇文諱化及
宇文化及の人物データ
- 生年
- 不詳
- 在位
- 618年10月23日〜619年3月18日
- 没年
- 不詳
- 死因
- 処刑非業の死・365名中34名
- 即位経路
- 自立帝号を新たに称した
- 先代
- —
- 次代
- —
出典(死因・即位経路)
- 死因
- 隋書 巻八十五 列伝第五十(宇文化及伝)/旧唐書 巻五十四(王世充・竇建徳伝)
- 即位経路
- 隋書 巻八十五 列伝第五十(宇文化及伝)
死因と即位経路を判定するときに読んだ正史の書名と巻です。
生涯
どんな皇帝か
宇文化及は隋の大将軍宇文述の子で、618年の江都の変で首領に推されて煬帝を殺し、秦王楊浩を帝に立てた。のちに楊浩を毒殺して魏県で自ら帝を称し、国号を許としたが、翌619年に竇建徳に捕らえられて斬られた。
即位まで
江都で帰郷を望む驍果を率いて司馬徳戡らが叛乱を謀ると、宇文化及は首領に推されたが、話を聞いて大いに恐れ汗を流したと隋書は記す。謀議の中心は弟の宇文智及だった。618年、裴虔通が宮門を開いて煬帝を捕らえ、震えて言葉も出ない宇文化及は朝堂に導かれて丞相と号した。隋書の本伝は、宇文化及が令狐行達を遣わして煬帝を殺させ、異を唱える朝臣と外戚を殺して楊浩だけを残し帝に立てたとする。煬帝紀は手を下した者の名を記さず、資治通鑑は令狐行達が煬帝の練巾で縊り殺したとし、考異は干洪達とする説を退けている。
治世と最期
西へ帰る途中の徐州で、司馬徳戡が宇文化及を襲おうとしたが、密告を受けた宇文化及は司馬徳戡とその党を殺した。黎陽と童山で李密と戦って利なく、汲郡へ移ると、配下の驍果も多く李密に寝返った。宇文化及は一日でも帝にならずにいられようかと嘆いて楊浩を毒殺し、魏県で皇帝の位に即いて天寿と改元した。619年、聊城に移ったところを竇建徳に攻められ、内応した王薄が建徳を城に引き入れて生け捕りにされた。竇建徳は主君殺しの罪を数え、宇文化及を二人の子とともに斬った。斬った場所を隋書は河間、北史と旧唐書の竇建徳伝は大陸県、資治通鑑は襄国とし、考異はこの諸説を並べる。その日を旧唐書の高祖本紀は新唐書より数日早く置いている。
在位中の出来事(1件)
改元618年10月23日元号を「天寿」とする