涼(隋末)第1代分裂期の王朝
李軌
在位 618年11月26日〜619年5月31日(186日)
李軌の人物データ
- 生年
- 不詳
- 在位
- 618年11月26日〜619年5月31日
- 没年
- 不詳
- 死因
- 処刑非業の死・365名中34名
- 即位経路
- 自立帝号を新たに称した
- 先代
- —
- 次代
- —
出典(死因・即位経路)
- 死因
- 旧唐書 巻五十五/新唐書 巻八十六
- 即位経路
- 旧唐書 巻五十五/新唐書 巻八十六
死因と即位経路を判定するときに読んだ正史の書名と巻です。
生涯
どんな皇帝か
李軌は隋末に武威で挙兵して河西大涼王を称し、618年には皇帝を称した。唐の高祖とは従兄弟と呼び合ったが唐の官は受けず、619年に内応した安興貴・安修仁の兄弟に捕らえられ、長安で斬られた。
即位まで
李軌は武威姑臧の人で、弁が立ち書物にも通じ、家が富んで貧者を救い、隋末には鷹揚府の官にあった。誰も主になろうとしないなか、曹珍が李氏が王となるという図讖を引いて李軌を推した。李軌は安修仁に胡人を率いて内苑城に入らせて挙兵し、隋の郎将らを捕らえて河西大涼王を称した。618年、李軌は涼州で尊号を称し、子の李伯玉を皇太子とした。安楽の建元を旧唐書の列伝と隋書は王を称したときとし、資治通鑑は帝を称したときとして、考異は実録に拠ると記す。
治世と最期
唐の高祖は薛挙を図るため璽書で李軌を従弟と呼び、涼州総管・涼王に冊拝した。619年、李軌は使者を入朝させて皇従弟大涼皇帝臣軌と表し、唐の官を受けなかった。讒言を信じて吏部尚書の梁碩を毒殺させてから旧友の心は離れた。胡の巫の言で玉女を待つ台を築いて費えを重ねた。飢饉では私財を傾けて施したが、隋の旧官の謝統師らの言に従って倉は開かなかったため、多くの者が背こうとした。安修仁の兄の安興貴が唐に帰すよう説くと、李軌は自分も西帝たりえないかと退けた。やがて安興貴が兵を動かすと城中の老幼が安修仁のもとへ出て、李軌は人心が去ったと嘆いて捕らえられた。捕らえた者を旧唐書の列伝と新唐書は安修仁とし、旧唐書の本紀と資治通鑑は安興貴として、その時期も旧唐書の本紀はひと月早い。新唐書の列伝と資治通鑑は長安で斬られたとし、旧唐書はまもなく誅されたとだけ記して場所を書かない。