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北斉(ほくせい)(南北朝(なんほくちょう))第2代分裂期の王朝

廃帝(はいてい)高殷(こういん)

在位 559年12月4日〜560年9月8日(279日)

姓高(こう)諱殷(いん)字正道(せいどう)幼名道人(どうじん)諡号閔悼王(びんとうおう)

廃帝の人物データ

生年
不詳
在位
  • 559年12月4日〜560年9月8日
在位 279日長さは365名中300位
没年
561年10月17歳(数え年)267名中長寿順247位タイ
死因
暗殺非業の死・365名中94名
即位経路
世襲
先代
次代

出典(死因・即位経路)

死因
北齊書 巻5 廢帝紀(北史からの補)
即位経路
北齊書 巻5 廢帝紀

死因と即位経路を判定するときに読んだ正史の書名と巻です。

生涯

どんな皇帝か

高殷(こういん)は北斉(ほくせい)の文宣帝(ぶんせんてい)の長子で、559年に父の死を受けて即位したが、翌560年に叔父の常山王(じょうざんおう)高演(こうえん)の政変で実権を失い、廃されて済南王(さいなんおう)となった。561年、帝位に即いた高演(こうえん)の命で晋陽(しんよう)で殺された。

即位まで

高殷(こういん)は字を正道(せいどう)といい、母は李(り)皇后(こうごう)で、550年に皇太子に立てられた。文宣帝(ぶんせんてい)は、太子は漢人の気質で自分に似ないと常々言い、廃して太原王(たいげんおう)を立てようとしたこともあった。囚人を手ずから斬れずに父に馬の鞭(むち)で打たれてからは、動悸(どうき)と吃音(きつおん)を患ったと本紀(ほんぎ)は記す。資治通鑑(しじつがん)によれば、文宣帝(ぶんせんてい)は死の前に常山王(じょうざんおう)高演(こうえん)へ、位を奪うならお前に任せるが殺すなと告げ、楊愔(ようあん)らが遺詔(いしょう)を受けて輔政(ほせい)した。559年に文宣帝(ぶんせんてい)が崩じると、高殷(こういん)は晋陽(しんよう)の宣徳(せんとく)殿で即位して大赦し、翌年に乾明(けんめい)と改元(かいげん)した。

治世と最期

楊愔(ようあん)・燕(えん)子献(しけん)らは、近親で声望が重く婁太后(ろうたいこう)も立てようとしていた高演(こうえん)を猜疑(さいぎ)した。560年、高演(こうえん)は楊愔(ようあん)・燕(えん)子献(しけん)・可朱渾(かしゅこん)天和(てんわ)・宋(そう)欽道(きんどう)・鄭子黙(ていしもく)を捕らえて誅(ちゅう)した。この政変の日を北斉(ほくせい)書の廃帝(はいてい)紀(き)と孝昭紀(こうしょうき)は違えて記し、資治通鑑(しじつがん)は宴席で捕らえる計略を立てたのを長広王(ちょうこうおう)高湛(こうたん)としている。資治通鑑(しじつがん)によれば、太皇太后(たいこうたいごう)に責められて言葉の出ない高殷(こういん)は、母の李(り)太后(たいこう)に促されて自分の命だけを乞い、この者たちは叔父の処分に任せると言った。同じ年、太皇太后(たいこうたいごう)の令で高殷(こういん)は済南王(さいなんおう)に降され、高演(こうえん)が位を継いだ。561年、天文の異変を受けた高帰彦(こうきげん)の進言で、高演(こうえん)は高帰彦(こうきげん)を晋陽(しんよう)へ遣わして済南王(さいなんおう)を殺させた。本紀(ほんぎ)は殺したと書くだけで手段を記さず、資治通鑑(しじつがん)は毒を飲ませようとして拒まれ、絞め殺したと記す。周書(しゅうしょ)と南史(なんし)は、高演(こうえん)が主の高殷(こういん)を廃して自立したとだけ記し、その死には触れない。

在位中の出来事(3件)

大赦559年12月4日
改元560年2月12日元号を「乾明」とする
被反乱560年3月〜560年9月常山王演の宮廷クーデター(南宮の変)

北斉の歴代皇帝

8名の一覧

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