後梁・五代十国第2代分裂期の王朝
末帝朱友貞
在位 913年3月27日〜923年11月18日(10年238日)
末帝の人物データ
出典(死因・即位経路)
- 死因
- 旧五代史 巻十(末帝紀下)
- 即位経路
- 旧五代史 巻八(末帝紀上)
死因と即位経路を判定するときに読んだ正史の書名と巻です。
生涯
どんな皇帝か
朱友貞は後梁の太祖の子で、913年、自らも謀議に加わって兄の友珪を討たせ、その後に即位した後梁最後の皇帝である。923年に唐軍が迫ると、近侍の皇甫麟に命じて自らを殺させ、梁は滅んだ。
即位まで
旧五代史は、友貞は太祖の第四子で、容姿が美しく、沈厚で口数が少なく、儒士を好んだと記す。912年に友珪が太祖を弑して即位すると、友貞は東京留守・開封府尹に任じられた。友貞が太祖の御容を示して、洛陽へ向かって逆賊を捕らえよと言うと、衆は万歳を呼んで友貞を主に請うた。913年、袁象先が洛陽で友珪を誅し、友貞は東京で即位して友珪の鳳暦の号を廃した。即位の詔で、友文は忠誠なのに友珪に誣いられて殺されたとして官爵を復させ、自分は遁世を期していたが推されて位を継いだと述べた。
治世と最期
洛陽で郊礼を行おうとしたが、918年に晋軍が楊劉を落としたと聞いて取りやめ、東京へ急いで戻った。楊師厚が没すると、魏博六州を二鎮に分けたことで915年に魏博の軍が乱れ、救いを求められた晋王が魏州に入った。920年、河中の朱友謙が同州を襲って叛し、晋に救援を求めた。諸将は同州の城下で晋の援軍に敗れた。921年、末帝は自らの不徳を責める詔を出し、貞明七年を龍徳元年と改めた。同年、陳州刺史の恵王友能が兵を挙げて京に向かったが撃破され、降って房陵侯に降された。923年、晋王が魏州で唐の皇帝に即位した。梁の王彦章は中都で唐軍に敗れて捕らえられ、末帝は禁軍が四千人あったが硃圭の出戦の願いを容れなかった。唐軍が曹州を過ぎたと聞いた末帝は、皇甫麟に、自分の命を尽くせと命じた。旧五代史は、麟が帝に刃を進めて帝は崩じ、麟は直ちに自刎したと記し、資治通鑑は麟が梁主を弑して自殺したと記す。
在位中の出来事(10件)
後梁・五代十国の歴代皇帝
3名の一覧- 第1代太祖907–912年暗殺
- 朱友珪912–913年自尽
- 第2代末帝913–923年自尽