
西晋第3代統一王朝
司馬倫
在位 301年2月3日〜301年5月30日(116日)
姓司馬諱倫字子彝
司馬倫の人物データ
出典(死因・即位経路)
- 死因
- 晉書 卷五十九 列傳第二十九 趙王倫
- 即位経路
- 晋書 巻五十九 列伝第二十九 趙王倫
死因と即位経路を判定するときに読んだ正史の書名と巻です。
生涯
どんな皇帝か
西晋の宗室で、孫秀に操られて賈后を廃し、恵帝から帝位を奪ったが、諸王の挙兵で敗れて死を賜った人物である。
即位まで
司馬懿の第九子で、母は柏夫人である。賈氏や郭氏と深く交わって賈后に信任された。愍懐太子が廃されると、孫秀は、賈后に太子を殺させてから后を廃して仇を討てば功になると説き、司馬倫はこれに従った。300年、詔を偽って夜に宮中に入り、賈后を廃して張華・裴頠らを殺した。恵帝紀はこの廃后を梁王司馬肜との連名とするが、司馬倫の伝には梁王の名が無い。司馬倫は凡庸で智略が無く、天下は孫秀に仕えて司馬倫には求めなかった。淮南王司馬允の挙兵が敗れたのち、九錫を加えられた。孫秀らは禅譲の詔を偽作し、恵帝から玉璽を奪わせて金墉城へ移した。301年、太極殿で玉璽を受けて即位し、建始と改元した。
治世と最期
即位後は官爵を濫りに与え、冠を飾る貂の尾が足りず犬の尾で継ぐと嘲られた。詔令は孫秀がしばしば書き改め、朝に出して夕に改めることもあった。同じ年、斉王司馬冏が挙兵し、成都王司馬穎らが応じて数十万の兵となった。挙兵から六十余日で、戦死者は十万人近くに上った。王輿が兵を率いて宮中に入り、孫秀らは斬られ、司馬倫は恵帝の復位を求める詔を書かされた。司馬倫は邸に退けられ、恵帝はその日のうちに復位した。梁王司馬肜が誅殺を上表すると、尚書が節を持って死を賜い、司馬倫は金屑の苦酒を飲まされて、孫秀に誤られたと言った。恵帝紀は趙王倫を誅したとだけ書き、死なせ方には触れない。このサイトの死因が暗殺となっているのは、政敵の上表によって死を賜ったことによる。
在位中の出来事(4件)
改元301年2月3日元号を「建始」とする
大赦301年2月3日永寧元年正月乙丑、趙王司馬倫が惠帝を廃して自ら皇帝に即位した当日、大赦を実施。
皇太子廃立301年2月4日
被反乱301年3月〜301年4月斉王冏・成都王穎・河間王顒・常山王乂ら宗室連合による挙兵(趙王倫討伐)