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西魏(せいぎ)(南北朝(なんほくちょう))第1代分裂期の王朝

文帝(ぶんてい)元(げん)宝炬(ほうきょ)

在位 535年2月18日〜551年3月28日(16年42日)

姓元(げん)諱宝炬(ほうきょ)

文帝の人物データ

生年
不詳
在位
  • 535年2月18日〜551年3月28日
在位 16年42日長さは365名中76位
没年
551年3月28日45歳(数え年)267名中長寿順105位タイ
死因
病死365名中167名
即位経路
擁立
先代
  • 孝武帝北魏文帝は孝武帝の従兄弟
次代
  • 廃帝西魏廃帝は文帝の子

出典(死因・即位経路)

死因
北史 巻五 魏本紀(西魏文帝)
即位経路
北史 巻五 魏本紀(西魏文帝)

死因と即位経路を判定するときに読んだ正史の書名と巻です。

生涯

どんな皇帝か

孝武帝(こうぶてい)の死後に宇文泰(うぶんたい)に立てられ、東西に分かれた魏(ぎ)の西の側で最初の皇帝となった人物である。北史(ほくし)の本紀(ほんぎ)は末尾で、帝位に就いても実権は宇文(うぶん)氏にあったと記す。

即位まで

孝文帝(こうぶんてい)の孫で、父は京兆王(けいちょうおう)元愉(げんゆ)である。534年、孝武帝(こうぶてい)が高歓(こうかん)と対立すると中軍四面大都督(ちゅうぐんしめんだいととく)となり、孝武帝(こうぶてい)に従って関中(かんちゅう)へ入った。孝武帝(こうぶてい)は、宝炬(ほうきょ)と同母の平原公主を宇文泰(うぶんたい)に殺されて不和となり、535年の初めに酒を飲んで毒に当たって没した。北史(ほくし)は毒を盛った者を名指しせず、東魏(とうぎ)の側の魏書(ぎしょ)は宇文泰(うぶんたい)が孝武帝(こうぶてい)を殺したと書く。資治通鑑(しじつがん)によれば、宇文泰(うぶんたい)が跡継ぎを諮ると多くは広平王(こうへいおう)元賛(げんさん)を推したが、濮陽王(ぼくようおう)元順が幼い君より年長の君をと説き、宇文泰(うぶんたい)は宝炬(ほうきょ)を立てた。宝炬(ほうきょ)は三度辞退したのちに受け、長安(ちょうあん)の城西で即位して大統(だいとう)と改元(かいげん)した。

治世と最期

即位の翌日に宇文泰(うぶんたい)へ軍事と政務の全権を与えた。537年、宇文泰(うぶんたい)が沙苑(さえん)で東魏(とうぎ)軍を大破した。538年に東魏(とうぎ)の侯景(こうけい)らが洛陽(らくよう)を囲むと、文帝(ぶんてい)は宇文泰(うぶんたい)とともに東へ兵を出したが、西魏(せいぎ)の本紀(ほんぎ)は勝敗を記さず、東魏(とうぎ)の側の魏書(ぎしょ)は河陰(かいん)で西魏(せいぎ)軍を大破したと書く。同じ年、皇后の乙弗氏(おつふつし)を廃し、柔然(じゅうぜん)の主阿那瓌(あなかい)の長女を皇后に立てた。后妃伝(こうひでん)によれば、東の討伐を優先して柔然(じゅうぜん)を討つ余裕が無く、婚姻で柔然(じゅうぜん)をなだめようとしたもので、乙弗氏(おつふつし)は別宮(べつぐう)に移されて出家した。540年に柔然(じゅうぜん)が大挙して黄河(こうが)を渡り、新しい皇后のための出兵だという声が出ると、文帝(ぶんてい)は乙弗氏(おつふつし)に自ら筆を執って自尽を命じた。柔然(じゅうぜん)から迎えた皇后も出産の直後に没し、当時は乙弗氏(おつふつし)の霊のしわざとされた。547年には高歓(こうかん)の死後に侯景(こうけい)が河南(かなん)の六州を挙げて降ったが、同じ年のうちに離れた。551年に乾安殿(けんあんでん)で没し、永陵(えいりょう)に葬られた。

在位中の出来事(20件)

改元535年2月18日元号を「大統」とする
大赦535年2月18日
被反乱536年河州羌・梁□定の乱(第1次)
被反乱536年万俟普拨の東魏亡命
親征538年東魏(侯景・高歓)
被反乱538年李叔仁の東魏内通事件
被反乱538年趙青雀の乱(関中・東魏降卒の反乱)
被反乱541年劉平の乱
被反乱541年梁仚定の乱(赤水羌の反乱、第2次)
被反乱546年宇文仲和の乱
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被反乱547年侯景の反乱(西魏からの離反)
被反乱549年〜550年孫暠の乱・柳仲礼来援の撃退
大赦日付不詳
大赦日付不詳
大赦日付不詳大統九年(543年)秋七月の大赦。
大赦日付不詳大統十三年(547年)三月の大赦。
大赦日付不詳
大赦日付不詳大統十六年(550年)秋九月の大赦。
立后日付不詳
立后日付不詳

西魏の歴代皇帝

3名の一覧

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