西魏(南北朝)第1代分裂期の王朝
文帝元宝炬
在位 535年2月18日〜551年3月28日(16年42日)
文帝の人物データ
出典(死因・即位経路)
- 死因
- 北史 巻五 魏本紀(西魏文帝)
- 即位経路
- 北史 巻五 魏本紀(西魏文帝)
死因と即位経路を判定するときに読んだ正史の書名と巻です。
生涯
どんな皇帝か
孝武帝の死後に宇文泰に立てられ、東西に分かれた魏の西の側で最初の皇帝となった人物である。北史の本紀は末尾で、帝位に就いても実権は宇文氏にあったと記す。
即位まで
孝文帝の孫で、父は京兆王元愉である。534年、孝武帝が高歓と対立すると中軍四面大都督となり、孝武帝に従って関中へ入った。孝武帝は、宝炬と同母の平原公主を宇文泰に殺されて不和となり、535年の初めに酒を飲んで毒に当たって没した。北史は毒を盛った者を名指しせず、東魏の側の魏書は宇文泰が孝武帝を殺したと書く。資治通鑑によれば、宇文泰が跡継ぎを諮ると多くは広平王元賛を推したが、濮陽王元順が幼い君より年長の君をと説き、宇文泰は宝炬を立てた。宝炬は三度辞退したのちに受け、長安の城西で即位して大統と改元した。
治世と最期
即位の翌日に宇文泰へ軍事と政務の全権を与えた。537年、宇文泰が沙苑で東魏軍を大破した。538年に東魏の侯景らが洛陽を囲むと、文帝は宇文泰とともに東へ兵を出したが、西魏の本紀は勝敗を記さず、東魏の側の魏書は河陰で西魏軍を大破したと書く。同じ年、皇后の乙弗氏を廃し、柔然の主阿那瓌の長女を皇后に立てた。后妃伝によれば、東の討伐を優先して柔然を討つ余裕が無く、婚姻で柔然をなだめようとしたもので、乙弗氏は別宮に移されて出家した。540年に柔然が大挙して黄河を渡り、新しい皇后のための出兵だという声が出ると、文帝は乙弗氏に自ら筆を執って自尽を命じた。柔然から迎えた皇后も出産の直後に没し、当時は乙弗氏の霊のしわざとされた。547年には高歓の死後に侯景が河南の六州を挙げて降ったが、同じ年のうちに離れた。551年に乾安殿で没し、永陵に葬られた。
在位中の出来事(20件)
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西魏の歴代皇帝
3名の一覧- 第1代文帝535–551年病死
- 第2代廃帝551–554年暗殺
- 第3代恭帝554–557年暗殺