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西魏(せいぎ)(南北朝(なんほくちょう))第2代分裂期の王朝

廃帝(はいてい)元(げん)欽(きん)

在位 551年3月28日〜554年3月(2年339日)

姓元(げん)諱欽(きん)

廃帝の人物データ

生年
不詳
在位
  • 551年3月28日〜554年3月
在位 2年339日長さは365名中227位
没年
不詳
死因
暗殺非業の死・365名中94名
即位経路
世襲
先代
  • 文帝西魏廃帝は文帝の子
次代
  • 恭帝西魏恭帝は廃帝の弟

出典(死因・即位経路)

死因
資治通鑑 巻165
即位経路
北史 巻五 魏本紀(西魏廢帝)

死因と即位経路を判定するときに読んだ正史の書名と巻です。

生涯

どんな皇帝か

元(げん)欽(きん)は西魏(せいぎ)文帝(ぶんてい)の長子で、母は乙皇后(こうごう)である。実権を握る宇文泰(うぶんたい)の娘を皇后としたが、宇文泰(うぶんたい)との溝が深まり、554年に廃された。

即位まで

535年に皇太子に立てられ、551年に文帝(ぶんてい)が死ぬと即位した。のちに廃位されたあと、史官(しかん)の柳虬(きゅう)は、文帝(ぶんてい)が七歳の嗣子を宇文泰(うぶんたい)に託したのに廃位に至ったのは宇文泰(うぶんたい)の咎(とが)だと朝廷で述べた。皇后の宇文(うぶん)氏は宇文泰(うぶんたい)の娘で、元(げん)欽(きん)が太子のときに妃となり、即位とともに皇后に立てられた。

治世と最期

周書(しゅうしょ)の李(り)基伝は、宇文泰(うぶんたい)の威権が君主を震わせ、即位後に両者の不和が深まったと記す。553年、宇文泰(うぶんたい)は尚書の元烈を殺した。北史(ほくし)はその理由を書かず、周書(しゅうしょ)は元烈が乱を謀ったため、資治通鑑(しじつがん)は宇文泰(うぶんたい)の殺害を謀ったためとする。北史(ほくし)によれば、元烈の死後に元(げん)欽(きん)は怨みを口にし、諸王が泣いて諫(いさ)めても聴かなかった。資治通鑑(しじつがん)はさらに、元(げん)欽(きん)が宇文泰(うぶんたい)を誅(ちゅう)しようと密かに謀ったとし、周書(しゅうしょ)の李(り)基伝は、宇文泰(うぶんたい)の娘婿たちが禁兵(きんぺい)を握っていたため謀が漏れたとする。554年、宇文泰(うぶんたい)は元(げん)欽(きん)を廃して雍州(ようしゅう)に置き、弟の斉王(せいおう)元廓(かく)を立てた。廃位の月については、資治通鑑(しじつがん)考異(こうい)が北史(ほくし)と別の記録との違いを挙げている。元(げん)欽(きん)の死は北史(ほくし)と周書(しゅうしょ)の本紀(ほんぎ)には記されず、北史(ほくし)后妃伝(こうひでん)は廃されて崩じたとだけ書き、宇文泰(うぶんたい)が鴆殺(ちんさつ)したと明記するのは資治通鑑(しじつがん)である。皇后の宇文(うぶん)氏も、魏(ぎ)の皇室に忠実であったために禍に遭った。

在位中の出来事(1件)

被反乱554年3月〜554年5月宇文泰による廃帝欽の廃位・鴆殺

西魏の歴代皇帝

3名の一覧

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