西魏(南北朝)第3代分裂期の王朝
恭帝拓跋廓
在位 554年3月〜557年2月14日(2年351日)
姓拓跋諱廓
恭帝の人物データ
出典(死因・即位経路)
- 死因
- 資治通鑑 巻167(陳紀一)/周書 巻三 孝閔帝紀
- 即位経路
- 周書 巻二 文帝紀下
死因と即位経路を判定するときに読んだ正史の書名と巻です。
生涯
どんな皇帝か
宇文泰が兄の廃帝を廃して立てた西魏最後の皇帝で、宇文泰の死後まもなくその子の宇文覚に位を譲った。退位後は宋公に封ぜられたが、北史はまもなく殂したとだけ書き、殺されたと記すのは資治通鑑である。
即位まで
西魏の文帝の第四子で、548年に斉王に封ぜられた。前の皇帝の廃帝は文帝の長子で、恭帝の兄にあたる。廃帝は元烈が誅されて以来、怨みの言葉を漏らしていたため、554年に宇文泰が公卿と議して廃し、斉王を立てた。資治通鑑考異によれば、国典は廃立を数か月後のこととするが、司馬光は北史に従った。
治世と最期
即位すると改元した。同じ年、魏史の柳虬は朝廷で、廃帝が廃されたのは輔政の宇文泰の咎だと述べた。555年の初め、西魏軍が梁を滅ぼし、梁の元帝を殺した。556年、初めて周礼の六官を施行し、宇文泰が太師・冢宰となった。宇文泰はこの年に死んだ。資治通鑑によれば、宇文護は宇文覚が幼いため早く位に即けて人心を定めようとし、恭帝の詔の形をとって周に禅らせた。恭帝は位を譲って大司馬府に移り住んだ。周書は、宇文覚が天王の位に即いた日に恭帝を宋公に封じたことだけを記し、北史もまもなく殂したとするにとどまる。資治通鑑は同じ年の条に、周の人が魏の恭帝を殺したと記す。このサイトの死因が暗殺となっているのは、資治通鑑のこの記事による。
在位中の出来事(1件)
改元日付不詳
西魏の歴代皇帝
3名の一覧- 第1代文帝535–551年病死
- 第2代廃帝551–554年暗殺
- 第3代恭帝554–557年暗殺