後燕(五胡十六国)第7代分裂期の王朝
昭文帝慕容熙
在位 401年〜407年(7年)
昭文帝の人物データ
出典(死因・即位経路)
- 死因
- 晉書/卷124
- 即位経路
- 晉書/卷124
死因と即位経路を判定するときに読んだ正史の書名と巻です。
生涯
どんな皇帝か
慕容熙は後燕の慕容垂の年少の子で、401年に甥の慕容盛が殺されたのち、太后丁氏に迎えられて位に即いた。苻后のための土木と遠征で民を疲れさせ、407年、馮跋らに推された慕容雲に捕らえられて殺された。
即位まで
401年、傷を負った慕容盛は叔父の慕容熙を呼んで後事を託そうとしたが、慕容熙が着く前に死んだ。太后丁氏は国難のときは年長の君を立てるべきだとし、衆望は平原公の慕容元にあったが、丁氏は慕容熙を望んで太子の慕容定を廃し、慕容熙を宮中に迎えた。晋書の載記は、慕容熙が丁氏と私通していたので立てられたと記す。慕容熙はいったん慕容元に位を譲ったが、固辞されて即位し、段璣や秦興らを三族とともに誅した。慕容元は嫌疑によって死を賜り、太子だった慕容定も、魏書では即位した慕容熙に殺され、資治通鑑では擁立の謀が発覚して死を賜ったとされる。
治世と最期
慕容熙が苻貴人を寵愛すると、丁氏は甥の丁信と廃立を謀り、怒った慕容熙は丁氏に自殺を強いて丁信を誅した。二万人を役して龍騰苑を築き、苻昭儀のために池を掘らせたときには真夏にも休ませず、暑さで死ぬ者が大半に及んだ。405年には苻后を伴って高句麗の遼東を攻めたが、皇后と輦で入城するまで将士の先登を許さず、城を落とせなかった。406年には苻后と契丹を襲おうとして引き返しかけたが、苻后が聴かず、高句麗を三千余里にわたって襲って、木底城を落とせずに帰った。苻后のための承華殿の造営を棺を携えて極諫した典軍の杜静を斬り、苻后が死ぬと群臣に哭させて涙の無い者を罰し、嫂の張氏を殉死させた。407年、苻后の葬送に出た留守に、馮跋や張興らが慕容雲を主に推して門を閉ざした。慕容熙は北門を攻めて落とせず、龍騰苑の林中に微服で隠れたところを捕らえられ、載記と資治通鑑では慕容雲に諸子とともに殺されたとするが、魏書は馮跋兄弟が捕らえて殺したとする。