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後燕(こうえん)(五胡十六国(ごこじゅうろっこく))第7代分裂期の王朝

昭文帝(しょうぶんてい)慕容熙(ぼようき)

在位 401年〜407年(7年)

姓慕容(ぼよう)諱熙(き)字道文(どうぶん)幼名長生(ちょうせい)

昭文帝の人物データ

生年
不詳
在位
  • 401年〜407年
在位 7年長さは365名中158位タイ
没年
407年23歳(数え年)267名中長寿順217位タイ
死因
処刑非業の死・365名中34名
即位経路
擁立帝号を新たに称した
先代
  • 昭武帝後燕昭文帝は昭武帝の叔父
次代
—
目立つ記録
  • 皇太子廃立1回(27名中4位タイ)

出典(死因・即位経路)

死因
晉書/卷124
即位経路
晉書/卷124

死因と即位経路を判定するときに読んだ正史の書名と巻です。

生涯

どんな皇帝か

慕容熙(ぼようき)は後燕(こうえん)の慕容垂(ぼようすい)の年少の子で、401年に甥(おい)の慕容盛(ぼようせい)が殺されたのち、太后(たいこう)丁氏(ていし)に迎えられて位に即いた。苻(ふ)后のための土木と遠征で民を疲れさせ、407年、馮(ふう)跋(ばつ)らに推された慕容(ぼよう)雲に捕らえられて殺された。

即位まで

401年、傷を負った慕容盛(ぼようせい)は叔父の慕容熙(ぼようき)を呼んで後事を託そうとしたが、慕容熙(ぼようき)が着く前に死んだ。太后(たいこう)丁氏(ていし)は国難のときは年長の君を立てるべきだとし、衆望は平原公(へいげんこう)の慕容(ぼよう)元にあったが、丁氏(ていし)は慕容熙(ぼようき)を望んで太子の慕容(ぼよう)定を廃し、慕容熙(ぼようき)を宮中に迎えた。晋書(しんじょ)の載記(さいき)は、慕容熙(ぼようき)が丁氏(ていし)と私通していたので立てられたと記す。慕容熙(ぼようき)はいったん慕容(ぼよう)元に位を譲ったが、固辞されて即位し、段璣(き)や秦興(しんこう)らを三族(さんぞく)とともに誅(ちゅう)した。慕容(ぼよう)元は嫌疑によって死を賜り、太子だった慕容(ぼよう)定も、魏書(ぎしょ)では即位した慕容熙(ぼようき)に殺され、資治通鑑(しじつがん)では擁立の謀が発覚して死を賜ったとされる。

治世と最期

慕容熙(ぼようき)が苻(ふ)貴人(きじん)を寵愛(ちょうあい)すると、丁氏(ていし)は甥(おい)の丁信と廃立を謀り、怒った慕容熙(ぼようき)は丁氏(ていし)に自殺を強いて丁信を誅(ちゅう)した。二万人を役して龍騰苑(りゅうとうえん)を築き、苻(ふ)昭儀(しょうぎ)のために池を掘らせたときには真夏にも休ませず、暑さで死ぬ者が大半に及んだ。405年には苻(ふ)后を伴って高句麗(こうくり)の遼東(りょうとう)を攻めたが、皇后と輦(れん)で入城するまで将士の先登を許さず、城を落とせなかった。406年には苻(ふ)后と契丹(きったん)を襲おうとして引き返しかけたが、苻(ふ)后が聴かず、高句麗(こうくり)を三千余里にわたって襲って、木底城(ぼくていじょう)を落とせずに帰った。苻(ふ)后のための承華殿(しょうかでん)の造営を棺を携えて極諫(きょっかん)した典軍(てんぐん)の杜(と)静を斬り、苻(ふ)后が死ぬと群臣に哭(こく)させて涙の無い者を罰し、嫂(あによめ)の張氏(ちょうし)を殉死させた。407年、苻(ふ)后の葬送に出た留守に、馮(ふう)跋(ばつ)や張興らが慕容(ぼよう)雲を主に推して門を閉ざした。慕容熙(ぼようき)は北門を攻めて落とせず、龍騰苑(りゅうとうえん)の林中に微服(びふく)で隠れたところを捕らえられ、載記(さいき)と資治通鑑(しじつがん)では慕容(ぼよう)雲に諸子とともに殺されたとするが、魏書(ぎしょ)は馮(ふう)跋(ばつ)兄弟が捕らえて殺したとする。

在位中の出来事(11件)

改元401年元号を「光始」とする
大赦401年
皇太子廃立401年
被反乱402年石城令高和の乱
親征404年契丹
親征405年高句麗(遼東)
親征406年契丹→高句麗(木底城)
改元407年元号を「建始」とする
被反乱407年9月馮跋・張興らのクーデター(慕容雲擁立)
大赦日付不詳
残り1件を表示
立后日付不詳

後燕の歴代皇帝

6名の一覧

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