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西燕(せいえん)(五胡十六国(ごこじゅうろっこく))第7代分裂期の王朝

慕容永(ぼようえい)

在位 386年〜394年(9年1日)

姓慕容(ぼよう)諱永(えい)字叔明(しゅくめい)

慕容永の人物データ

生年
不詳
在位
  • 386年〜394年
在位 9年1日長さは365名中140位
没年
394年
死因
処刑非業の死・365名中34名
即位経路
擁立帝号を新たに称した
先代
  • 慕容忠西燕慕容永は慕容忠の同族(遠縁)
次代
—
目立つ記録
  • 親征5回(109名中10位タイ)
  • 遷都1回(42名中9位タイ)

出典(死因・即位経路)

死因
晉書/卷123 慕容垂載記
即位経路
資治通鑑巻106、通鑑紀事本末第16巻

死因と即位経路を判定するときに読んだ正史の書名と巻です。

生涯

どんな皇帝か

慕容永(ぼようえい)は西燕(せいえん)の皇帝で、386年に長子に拠って位に即いた。394年、後燕(こうえん)の慕容垂(ぼようすい)に台壁(たいへき)で大敗して長子を囲まれ、内応で城が落ちて斬られた。

即位まで

慕容永(ぼようえい)は慕容廆(ぼようかい)の弟慕容運(ぼよううん)の孫で、前燕(ぜんえん)が苻堅(ふけん)に併合されると長安(ちょうあん)へ移され、夫婦で市に靴を売って暮らした。386年、慕容沖(ぼようちゅう)が殺されたのち、慕容(ぼよう)恒とひそかに謀って燕王(えんおう)の段随(だんずい)を襲って殺した。衆が慕容(ぼよう)瑶(よう)を去って自分に奔ると、慕容永(ぼようえい)は慕容(ぼよう)瑶(よう)を殺して慕容泓(ぼようおう)の子の慕容忠(ぼようちゅう)を帝に立てた。同じ年、刁(ちょう)雲らが慕容忠(ぼようちゅう)を殺して慕容永(ぼようえい)を推し、慕容永(ぼようえい)は後燕(こうえん)に藩を称した。前秦(ぜんしん)の苻丕(ふひ)に東へ帰る道を借りたいと求めて拒まれると、襄陵(じょうりょう)で戦って秦(しん)兵を大敗させたが、晋書(しんじょ)の本紀(ほんぎ)はこのころ苻丕(ふひ)を河東(かとう)で破ったのを慕容垂(ぼようすい)とする。そのうえで長子に進んで皇帝の位に即き、中興と改元(かいげん)した。

治世と最期

即位の際、上夫人(じょうふじん)にしようとした前秦(ぜんしん)の皇后(こうごう)楊氏(ようし)に剣で刺されかけ、これを殺した。慕容盛(ぼようせい)らが後燕(こうえん)へ逃げ帰ってから一年余りのち、慕容儁(ぼようしゅん)と慕容垂(ぼようすい)の子孫を男女残らず誅(ちゅう)した。390年には洛陽(らくよう)へ向かったが、東晋(とうしん)の朱序(じょ)に撃破されて上党(じょうとう)へ逃げ帰った。392年、慕容垂(ぼようすい)に敗れた翟(てき)釗(しょう)を迎えて東郡王(とうぐんおう)としたが、のちに謀反した翟(てき)釗(しょう)を殺した。394年、自ら精兵五万を率いて台壁(たいへき)で慕容垂(ぼようすい)と戦ったが、伏兵に後ろを断たれて大敗し、長子へ逃げ帰った。子の慕容(ぼよう)弘(こう)らを東晋(とうしん)に遣わして玉璽(ぎょくじ)を献じて救援を求め、北魏(ほくぎ)にも急を告げたが、援軍が着く前に城内の内応で後燕(こうえん)兵が入った。内応した者を資治通鑑(しじつがん)は大逸豆帰(だいいつとうき)の部将伐勤(ばつきん)らとし、晋書(しんじょ)の慕容垂(ぼようすい)載記(さいき)は慕容永(ぼようえい)の将賈(か)韜(とう)とする。慕容永(ぼようえい)は捕らえられて斬られ、刁(ちょう)雲や大逸豆帰(だいいつとうき)らも斬られた。

在位中の出来事(7件)

改元386年元号を「中興」とする
親征386年前秦(苻丕)
遷都386年長安 → 長子(上党)
親征387年前秦残党(雍州刺史兰椟)・後秦(姚萇)
親征390年東晋(洛陽方面、硃序)
親征391年東晋(河南、楊佺期)
親征394年6月〜394年9月後燕(慕容垂)

西燕の歴代皇帝

4名の一覧

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