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西燕(せいえん)(五胡十六国(ごこじゅうろっこく))第2代分裂期の王朝

威帝(いてい)慕容沖(ぼようちゅう)

在位 385年〜386年(1年1日)

姓慕容(ぼよう)諱沖(ちゅう)幼名鳳皇(ほうおう)

威帝の人物データ

生年
359年
在位
  • 385年〜386年
在位 1年1日27歳で即位(数え年)・長さは365名中289位タイ
没年
386年28歳(数え年)267名中長寿順198位タイ
死因
暗殺非業の死・365名中94名
即位経路
擁立帝号を新たに称した
先代
  • 慕容泓威帝は慕容泓の弟
次代

出典(死因・即位経路)

死因
資治通鑑巻106 晋紀二十八
即位経路
晉書/卷114 苻堅載記下、資治通鑑巻106

死因と即位経路を判定するときに読んだ正史の書名と巻です。

生涯

どんな皇帝か

前燕(ぜんえん)の皇子で、前燕(ぜんえん)が滅びると前秦(ぜんしん)の苻堅(ふけん)のもとに置かれ、淝水(ひすい)の戦いの後に挙兵して長安(ちょうあん)を落とし、西燕(せいえん)の帝を称した慕容沖(ぼようちゅう)である。長安(ちょうあん)に居座ったことで配下の怨みを買い、殺された。

即位まで

前燕(ぜんえん)の慕容儁(ぼようしゅん)の子で、中山王(ちゅうざんおう)に封じられた。370年に苻堅(ふけん)が前燕(ぜんえん)を滅ぼすと、12歳の慕容沖(ぼようちゅう)は姉とともに苻堅(ふけん)の寵愛(ちょうあい)を受け、王猛が強く諫(いさ)めたため宮中から出された。小字は鳳皇(ほうおう)で、鳳皇(ほうおう)は阿房(あぼう)に止まるという童謡に合わせて苻堅(ふけん)は阿房城(あぼうじょう)に桐(きり)と竹を植えたが、のちに慕容沖(ぼようちゅう)はその阿房城(あぼうじょう)に賊として入った。384年、淝水(ひすい)の敗戦の翌年に河東(かとう)で挙兵したが、前秦(ぜんしん)軍に大敗して兄の慕容泓(ぼようおう)の軍へ逃げ込んだ。載記(さいき)によれば、慕容泓(ぼようおう)の謀臣らは慕容泓(ぼようおう)の声望が慕容沖(ぼようちゅう)に及ばないとして慕容泓(ぼようおう)を殺し、慕容沖(ぼようちゅう)を皇太弟(こうたいてい)に立てたが、晋書(しんじょ)の本紀(ほんぎ)は慕容沖(ぼようちゅう)が慕容泓(ぼようおう)を殺して自ら皇太弟(こうたいてい)を称したとし、慕容沖(ぼようちゅう)を慕容泓(ぼようおう)の叔父と書く。長安(ちょうあん)に迫ると、牛羊を飼う奴が何をしに来たと責める苻堅(ふけん)に、奴であることに飽きたからお前に取って代わりたいと答えた。その後、阿房(あぼう)で帝を称して更始と改元(かいげん)した。その時期を晋書(しんじょ)の本紀(ほんぎ)は太元(たいげん)九年の暮れの条に置き、資治通鑑(しじつがん)は太元(たいげん)十年の初めの条に置き、西暦では384年の末から385年の初めにあたる。

治世と最期

長安(ちょうあん)を囲む軍は関中(かんちゅう)を荒らし、千里にわたって炊煙が絶えたという。385年、苻堅(ふけん)が五将山(ごしょうざん)へ出たあとに長安(ちょうあん)へ入り、兵に大掠奪(だいりゃくだつ)をさせた。資治通鑑(しじつがん)によれば、慕容沖(ぼようちゅう)は長安(ちょうあん)の暮らしを楽しみ、慕容垂(ぼようすい)を恐れて東へ帰らなかったため鮮卑(せんぴ)の人々の怨みを買い、386年に左将軍(さしょうぐん)の韓延に攻め殺された。北史(ほくし)も韓延が殺したとするが、晋書(しんじょ)の本紀(ほんぎ)は殺したのを部将の許木末(ぼくまつ)とする。晋書(しんじょ)の姚萇(ようちょう)載記(さいき)は逆に、慕容沖(ぼようちゅう)が東へ下ったので長安(ちょうあん)が空になったと書く。

在位中の出来事(3件)

親征384年〜385年前秦(苻堅)
被反乱386年左将軍韓延のクーデター
改元日付不詳元号を「更始」とする

西燕の歴代皇帝

4名の一覧

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