西燕(五胡十六国)第2代分裂期の王朝
威帝慕容沖
在位 385年〜386年(1年1日)
威帝の人物データ
出典(死因・即位経路)
- 死因
- 資治通鑑巻106 晋紀二十八
- 即位経路
- 晉書/卷114 苻堅載記下、資治通鑑巻106
死因と即位経路を判定するときに読んだ正史の書名と巻です。
生涯
どんな皇帝か
前燕の皇子で、前燕が滅びると前秦の苻堅のもとに置かれ、淝水の戦いの後に挙兵して長安を落とし、西燕の帝を称した慕容沖である。長安に居座ったことで配下の怨みを買い、殺された。
即位まで
前燕の慕容儁の子で、中山王に封じられた。370年に苻堅が前燕を滅ぼすと、12歳の慕容沖は姉とともに苻堅の寵愛を受け、王猛が強く諫めたため宮中から出された。小字は鳳皇で、鳳皇は阿房に止まるという童謡に合わせて苻堅は阿房城に桐と竹を植えたが、のちに慕容沖はその阿房城に賊として入った。384年、淝水の敗戦の翌年に河東で挙兵したが、前秦軍に大敗して兄の慕容泓の軍へ逃げ込んだ。載記によれば、慕容泓の謀臣らは慕容泓の声望が慕容沖に及ばないとして慕容泓を殺し、慕容沖を皇太弟に立てたが、晋書の本紀は慕容沖が慕容泓を殺して自ら皇太弟を称したとし、慕容沖を慕容泓の叔父と書く。長安に迫ると、牛羊を飼う奴が何をしに来たと責める苻堅に、奴であることに飽きたからお前に取って代わりたいと答えた。その後、阿房で帝を称して更始と改元した。その時期を晋書の本紀は太元九年の暮れの条に置き、資治通鑑は太元十年の初めの条に置き、西暦では384年の末から385年の初めにあたる。
治世と最期
長安を囲む軍は関中を荒らし、千里にわたって炊煙が絶えたという。385年、苻堅が五将山へ出たあとに長安へ入り、兵に大掠奪をさせた。資治通鑑によれば、慕容沖は長安の暮らしを楽しみ、慕容垂を恐れて東へ帰らなかったため鮮卑の人々の怨みを買い、386年に左将軍の韓延に攻め殺された。北史も韓延が殺したとするが、晋書の本紀は殺したのを部将の許木末とする。晋書の姚萇載記は逆に、慕容沖が東へ下ったので長安が空になったと書く。
在位中の出来事(3件)
西燕の歴代皇帝
4名の一覧- 第2代威帝385–386年暗殺
- 第5代慕容瑤386年暗殺
- 第6代慕容忠386年暗殺
- 第7代慕容永386–394年処刑