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前涼(ぜんりょう)(五胡十六国(ごこじゅうろっこく))第7代分裂期の王朝

張祚(ちょうそ)

在位 354年〜355年(1年243日)

姓張(ちょう)諱祚(そ)字太伯(たいはく)幼名螽斯(しゅうし)諡号威王(いおう)

張祚の人物データ

生年
不詳
在位
  • 354年〜355年
在位 1年243日長さは365名中272位
没年
不詳
死因
暗殺非業の死・365名中94名
即位経路
簒奪帝号を新たに称した
先代
  • 張耀霊張祚は張耀霊の伯父
次代
—

出典(死因・即位経路)

死因
晉書 卷八十六 列傳第五十六 張軌(附張祚)/十六國春秋 卷七十三
即位経路
晉書 張軌傳

死因と即位経路を判定するときに読んだ正史の書名と巻です。

生涯

どんな皇帝か

甥の張耀霊から位を奪って前涼で帝を称し、淫虐のために人心を失って、一族の挙兵で殺された人物である。

即位まで

張駿の子で、張重華の兄にあたる。張重華が没して10歳の子の張耀霊が継ぐと、寵臣の趙長らが張重華の遺令と偽って張祚を輔政に就けた。張祚はかねて張重華の母の馬氏と通じており、馬氏は張耀霊を廃して張祚を立てることに同意した。354年、尉緝・趙長らの議を容れて帝位を称し、和平と改元して、妻の辛氏を皇后に立てた。資治通鑑と十六国春秋はこれを王位とし、晋書の帝位とは食い違う。

治世と最期

晋書は張祚を淫暴とし、張重華の妻の裴氏と通じたと記す。資治通鑑は、張祚が裴氏と謝艾を殺したと記す。張耀霊を殺した時期も書によって違い、晋書の本紀は張重華の死と同じ353年に置き、資治通鑑は355年に張瓘が張耀霊の復位を掲げて挙兵したあとに置く。一族の張瓘の強大を憎んで兵に襲わせたが、355年に張瓘の弟らが城に入ると、張祚は殿上で剣に手を掛けて死戦を命じたものの、戦う者はなく殺された。首は梟され、屍は道端に晒された。十六国春秋は、趙長が槊で張祚の頬を刺し、厨士の徐黒が殺したと異なる最期を記す。のちに張天錫が改葬して威王と追謚した。

在位中の出来事(3件)

立后354年
改元354年2月元号を「和平」とする
被反乱355年7月〜355年9月張瓘・宋混の乱(張祚弑逆)

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