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西燕(せいえん)(五胡十六国(ごこじゅうろっこく))第5代分裂期の王朝

慕容瑤(ぼようよう)

在位 386年〜386年(30日)

姓慕容(ぼよう)諱瑤(よう)

慕容瑤の人物データ

生年
不詳
在位
  • 386年〜386年
在位 30日長さは365名中355位タイ
没年
386年
死因
暗殺非業の死・365名中94名
即位経路
擁立
先代
  • 威帝西燕慕容瑤は威帝の子
次代
  • 慕容忠西燕慕容忠は慕容瑤の従兄弟

出典(死因・即位経路)

死因
資治通鑑巻106 晋紀二十八
即位経路
資治通鑑巻106 晋紀二十八

死因と即位経路を判定するときに読んだ正史の書名と巻です。

生涯

どんな皇帝か

父の威帝(いてい)(慕容沖(ぼようちゅう))が殺されたあとの西燕(せいえん)の内紛で、慕容(ぼよう)恒に帝として立てられ、まもなく慕容永(ぼようえい)に殺された人物である。

即位まで

西燕(せいえん)の主の慕容沖(ぼようちゅう)の子で、それ以外の経歴や生年・年齢は資治通鑑(しじつがん)・魏書(ぎしょ)・北史(ほくし)・十六国春秋(じゅうろっこくしゅんじゅう)のいずれにも見えない。386年、長安(ちょうあん)に居ついて東へ帰ろうとしない慕容沖(ぼようちゅう)を鮮卑(せんぴ)が怨み、韓延が慕容沖(ぼようちゅう)を殺して部将の段随(だんずい)を燕王(えんおう)に立てた。晋書(しんじょ)の孝武帝(こうぶてい)紀(き)は、慕容沖(ぼようちゅう)を殺したのを部将の許木末(ぼくまつ)とする。同じ年、慕容(ぼよう)恒と慕容永(ぼようえい)が段随(だんずい)を殺して慕容顗(ぼようぎ)を立て、鮮卑(せんぴ)の男女四十余万口を率いて長安(ちょうあん)を去り、東へ向かった。慕容(ぼよう)恒の弟の慕容(ぼよう)韜(とう)が慕容顗(ぼようぎ)を臨晋(りんしん)に誘い出すと、慕容(ぼよう)恒は怒って慕容(ぼよう)韜(とう)のもとを去った。胡(こ)三省(さんせい)の注本(ちゅうほん)の資治通鑑(しじつがん)と魏書(ぎしょ)は、慕容(ぼよう)韜(とう)がこのとき慕容顗(ぼようぎ)を殺したと明記する。慕容(ぼよう)恒は慕容瑤(ぼようよう)を帝に立てて建平(けんぺい)と改元(かいげん)し、父の慕容沖(ぼようちゅう)に威皇帝(いこうてい)と諡(おくりな)した。

治世と最期

人々はみな慕容瑤(ぼようよう)のもとを去って慕容永(ぼようえい)に奔り、慕容永(ぼようえい)が慕容瑤(ぼようよう)を捕らえて殺した。慕容永(ぼようえい)はそのあと慕容泓(ぼようおう)の子の慕容忠(ぼようちゅう)を帝に立てたが、その慕容忠(ぼようちゅう)ものちに刁(ちょう)雲に殺された。魏書(ぎしょ)と北史(ほくし)の慕容永(ぼようえい)伝は名を望と書き、十六国春秋(じゅうろっこくしゅんじゅう)は瑤(よう)とし、望とも書くと注する。晋書(しんじょ)には、慕容瑤(ぼようよう)の擁立も殺害も載っていない。即位と死の月日も在位の長さも、資治通鑑(しじつがん)・魏書(ぎしょ)・北史(ほくし)・十六国春秋(じゅうろっこくしゅんじゅう)のいずれにも無い。

在位中の出来事(2件)

被反乱386年慕容永による慕容瑤弑逆・簒奪
改元日付不詳元号を「建平」とする

西燕の歴代皇帝

4名の一覧

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