
南燕(五胡十六国)第1代分裂期の王朝
献武帝慕容徳
在位 400年〜405年(5年2日)
献武帝の人物データ
出典(死因・即位経路)
- 死因
- 晉書/卷127 慕容徳載記
- 即位経路
- 晉書/卷127 慕容徳載記
死因と即位経路を判定するときに読んだ正史の書名と巻です。
生涯
どんな皇帝か
慕容徳は前燕の慕容皝の末子で、北魏に追われた後燕から分かれて南燕を建てた。400年に広固を拠点として皇帝の位に即き、405年、兄の子の慕容超を太子に立てて病のうちに死んだ。
即位まで
397年、北魏が中山に入って慕容宝が薊へ逃れると、群臣は慕容徳に尊号を勧めたが、慕容徳は従わなかった。398年、兄の子の慕容麟の勧めで、戸四万を率いて鄴から滑台へ移り、元年を称して百官を置いた。このとき資治通鑑は燕王を称したと記し、晋書の載記は燕王の号を記さない。慕容宝が黎陽まで逃れてきたときには、張華に天授の業を捨てるなと説かれ、壮士数百を率いて北へ向かって慕容宝を殺そうと謀ったが、慕容宝は察して逃げ去り、使者の趙思は仕えるのを拒んで斬られた。やがて慕容和の長史の李辯が慕容和を殺して滑台ごと北魏に降り、慕容徳は拠点を失った。潘聡が山川の険しい広固こそ都にふさわしいと説き、慕容徳は南へ兵を進めた。400年、南郊で皇帝の位に即いて建平と改元し、妻の段氏を皇后とした。
治世と最期
資治通鑑によれば、即位にあたって民が避諱しやすいよう名を備徳に改めた。長安から来た旧吏の趙融から母と兄の死を知ると、慕容徳は血を吐いて病に伏した。その隙に司隷校尉の慕容達が謀反を起こしたが、慕容徳は宮に入って与党を誅し、慕容達は北魏へ逃れた。子の無い慕容徳のもとには、兄の慕容納の遺腹の子である慕容超が長安から来ていた。晋書の載記は、夢で父に告げられたとして慕容超を皇太子に立てたとし、資治通鑑は、口をきけなくなった慕容徳に段皇后が立太子を問い、うなずいたと記す。慕容徳はまもなく死に、夜に十余りの棺を四つの門から出して山谷に密かに葬ったので、遺体の所在は分からない。死の年を晋書の載記は405年とし、同じ晋書の安帝紀は404年の記事の中に置いている。
在位中の出来事(6件)
南燕の歴代皇帝
2名の一覧- 第1代献武帝400–405年病死
- 第2代慕容超405–410年処刑