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南燕(なんえん)(五胡十六国(ごこじゅうろっこく))第2代分裂期の王朝

慕容超(ぼようちょう)

在位 405年〜410年(5年32日)

姓慕容(ぼよう)諱超(ちょう)字祖明(そめい)

慕容超の人物データ

生年
不詳
在位
  • 405年〜410年
在位 5年32日長さは365名中188位
没年
410年26歳(数え年)267名中長寿順206位タイ
死因
処刑非業の死・365名中34名
即位経路
世襲
先代
次代
—

出典(死因・即位経路)

死因
晉書/卷128 慕容超載記
即位経路
晉書/卷128 慕容超載記

死因と即位経路を判定するときに読んだ正史の書名と巻です。

生涯

どんな皇帝か

叔父の慕容徳(ぼようとく)の後を継いだ南燕(なんえん)の皇帝で、劉裕(りゅうゆう)の北伐(ほくばつ)を国内に引き入れて敗れ、建康(けんこう)の市で斬られた。晋書(しんじょ)の史臣(ししん)は、宿豫(しゅくよ)を陥して禍を招き、大峴(たいけん)を開いて敵を入れ、君臣ともに虜となったと評する。

即位まで

父は慕容徳(ぼようとく)の兄の北海王(ほくかいおう)慕容納(ぼようのう)である。前秦(ぜんしん)の苻(ふ)昌(しょう)が慕容納(ぼようのう)らを誅(ちゅう)したとき、獄に囚われた身重の母段氏(だんし)を獄掾(ごくえん)の呼延平(こえんへい)が羌(きょう)の地へ逃がし、慕容超(ぼようちょう)はそこで生まれた。のちに長安(ちょうあん)へ移ると、後秦(こうしん)に取り立てられて拘束されるのを恐れ、狂ったふりをして物乞いをした。405年に慕容徳(ぼようとく)が死ぬと位を継ぎ、大赦して太上(たいじょう)と改元(かいげん)した。晋書(しんじょ)の安帝(あんてい)紀(き)だけはこの記事を前年の末尾に置いている。

治世と最期

慕容(ぼよう)法らの謀反が起こると、その党を誅(ちゅう)し、僕射(ぼくや)の封嵩(すう)を車裂(くるまざ)きにした。後秦(こうしん)に母と妻を留められていたため、張華の議を容れて太楽(たいがく)の伎人(ぎじん)百二十人を姚興(ようこう)に送った。晋書(しんじょ)の載記(さいき)は407年に母を皇太后、妻呼延氏(こえんし)を皇后としたと記し、資治通鑑(しじつがん)はこれを翌年の条に置く。その後、正旦(せいたん)の朝会で楽の欠けを嘆いて楽人を送ったことを悔い、東晋(とうしん)の宿豫(しゅくよ)を攻め落として二千五百人を太楽(たいがく)に付けた。409年に劉裕(りゅうゆう)が攻めて来ると、大峴(たいけん)を塞ぐ策を退けて敵を平地へ引き入れ、諫(いさ)めた慕容(ぼよう)鎮を獄に下した。臨朐(りんく)で敗れて広固(こうこ)へ逃げ帰り、降伏を勧められても、剣を奮って死ぬことはあっても璧を銜(くわ)えて生を求めることはできないと答えた。410年、悦寿(えつじゅ)が城門を開いて晋軍(しんぐん)を入れ、逃れた慕容超(ぼようちょう)は捕らえられて建康(けんこう)に送られ、市で斬られた。晋書(しんじょ)の安帝(あんてい)紀(き)が記す広固(こうこ)陥落の日はその月に無い干支で、資治通鑑(しじつがん)と宋書(そうじょ)は翌月の同じ干支の日とする。

在位中の出来事(6件)

改元405年元号を「太上」とする
大赦405年
被反乱406年慕容法・慕容鍾・段宏の謀反
大赦407年義熙三年、南郊祭祀の際に赤鼠のような怪獣が現れ大風が起きる異変があり、太史令成公綏の進言(信用奸臣・誅戮賢良・賦斂繁多等)を受けて超が恐れて大赦し、公孫五楼らを譴責した。
立后407年義熙三年、父慕容徳を穆皇帝と追尊し、母段氏を皇太后とするとともに、妻呼延氏を皇后に立てた。
親征409年7月〜410年2月刘裕(东晋)

南燕の歴代皇帝

2名の一覧

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