後趙(五胡十六国)第6代分裂期の王朝
石鑑
在位 349年〜350年(103日)
石鑑の人物データ
出典(死因・即位経路)
- 死因
- 晉書 載記第七 石鑑
- 即位経路
- 晉書 載記第七 石鑑
死因と即位経路を判定するときに読んだ正史の書名と巻です。
生涯
どんな皇帝か
石鑑は後趙の石虎の子で、兄弟の石遵が殺されたのち、石閔らに擁されて即位した。石閔を除こうとして失敗し、幽閉されてからも鄴を襲わせようとして露見し、殺された。
即位まで
即位の前は義陽公として関中に鎮し、石世の即位後には石遵とともに丞相とされた。349年、石遵が鄭太后の前で石閔の誅殺を議したとき、石鑑は退出したあと宦者を走らせてこれを石閔に知らせた。石閔は李農らと謀って石遵を捕らえて殺し、石鑑が帝位に就いて大赦し、石閔を大将軍・武徳王とした。晋書の穆帝紀と魏書は、石鑑が石遵を殺して自立したと書き、魏書と十六国春秋は石鑑を石遵の兄とする。
治世と最期
石鑑は石苞らに夜の琨華殿で石閔と李農を討たせようとしたが失敗し、知らぬふりをして手を下した者たちを斬った。襄国の石祗が石閔らの誅殺を呼びかけると、載記によれば石鑑は石琨らに七万の兵を付けて討たせたが、資治通鑑はこの派兵を石閔と李農によるとする。孫伏都らが羯の兵で石閔を攻めたとき、石鑑ははじめ孫伏都を励ましたが、攻撃が失敗すると石閔に殺されるのを恐れて門を開き、孫伏都が反したので討てと告げた。その後、石閔は石鑑を御龍観に閉じ込めて食事を吊り下げて与え、胡人が従わないと知ると胡羯を男女の別なく斬らせ、死者は二十余万に及んだ。350年、石閔らが出陣した隙に、石鑑はひそかに張沈らに鄴を襲わせようとしたが、使いの宦者が石閔に告げた。駆け戻った石閔らは石鑑を廃して殺し、載記によれば石虎の孫三十八人を誅して石氏をことごとく滅ぼした。魏書と十六国春秋は石鑑の元号を青龍とするが、資治通鑑はこの改元を石閔が行ったものとし、晋書の載記には元号の記述が無い。