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後趙(こうちょう)(五胡十六国(ごこじゅうろっこく))第6代分裂期の王朝

石鑑(せきかん)

在位 349年〜350年(103日)

姓石(せき)諱鑑(かん)

石鑑の人物データ

生年
不詳
在位
  • 349年〜350年
在位 103日長さは365名中336位
没年
350年
死因
暗殺非業の死・365名中94名
即位経路
擁立
先代
  • 石遵後趙石鑑は石遵の兄
次代
—

出典(死因・即位経路)

死因
晉書 載記第七 石鑑
即位経路
晉書 載記第七 石鑑

死因と即位経路を判定するときに読んだ正史の書名と巻です。

生涯

どんな皇帝か

石鑑(せきかん)は後趙(こうちょう)の石虎(せきこ)の子で、兄弟の石遵(せきじゅん)が殺されたのち、石閔(びん)らに擁されて即位した。石閔(びん)を除こうとして失敗し、幽閉されてからも鄴(ぎょう)を襲わせようとして露見し、殺された。

即位まで

即位の前は義陽公(ぎようこう)として関中(かんちゅう)に鎮し、石世(せきせい)の即位後には石遵(せきじゅん)とともに丞相(じょうしょう)とされた。349年、石遵(せきじゅん)が鄭(てい)太后(たいこう)の前で石閔(びん)の誅殺(ちゅうさつ)を議したとき、石鑑(せきかん)は退出したあと宦者(かんじゃ)を走らせてこれを石閔(びん)に知らせた。石閔(びん)は李(り)農らと謀って石遵(せきじゅん)を捕らえて殺し、石鑑(せきかん)が帝位に就いて大赦し、石閔(びん)を大将軍(だいしょうぐん)・武徳(ぶとく)王とした。晋書(しんじょ)の穆帝(ぼくてい)紀(き)と魏書(ぎしょ)は、石鑑(せきかん)が石遵(せきじゅん)を殺して自立したと書き、魏書(ぎしょ)と十六国春秋(じゅうろっこくしゅんじゅう)は石鑑(せきかん)を石遵(せきじゅん)の兄とする。

治世と最期

石鑑(せきかん)は石苞(ほう)らに夜の琨華殿(こんかでん)で石閔(びん)と李(り)農を討たせようとしたが失敗し、知らぬふりをして手を下した者たちを斬った。襄国(じょうこく)の石祗(せきし)が石閔(びん)らの誅殺(ちゅうさつ)を呼びかけると、載記(さいき)によれば石鑑(せきかん)は石琨(こん)らに七万の兵を付けて討たせたが、資治通鑑(しじつがん)はこの派兵を石閔(びん)と李(り)農によるとする。孫伏都(ふくと)らが羯(けつ)の兵で石閔(びん)を攻めたとき、石鑑(せきかん)ははじめ孫伏都(ふくと)を励ましたが、攻撃が失敗すると石閔(びん)に殺されるのを恐れて門を開き、孫伏都(ふくと)が反したので討てと告げた。その後、石閔(びん)は石鑑(せきかん)を御龍観(ぎょりゅうかん)に閉じ込めて食事を吊(つ)り下げて与え、胡人(こじん)が従わないと知ると胡羯(こけつ)を男女の別なく斬らせ、死者は二十余万に及んだ。350年、石閔(びん)らが出陣した隙に、石鑑(せきかん)はひそかに張沈らに鄴(ぎょう)を襲わせようとしたが、使いの宦者(かんじゃ)が石閔(びん)に告げた。駆け戻った石閔(びん)らは石鑑(せきかん)を廃して殺し、載記(さいき)によれば石虎(せきこ)の孫三十八人を誅(ちゅう)して石氏(せきし)をことごとく滅ぼした。魏書(ぎしょ)と十六国春秋(じゅうろっこくしゅんじゅう)は石鑑(せきかん)の元号を青龍(せいりゅう)とするが、資治通鑑(しじつがん)はこの改元(かいげん)を石閔(びん)が行ったものとし、晋書(しんじょ)の載記(さいき)には元号の記述が無い。

在位中の出来事(3件)

被反乱350年1月石祗(新興王)の挙兵
被反乱350年3月冉閔・李農による石鑑弑逆(クーデター)
大赦日付不詳

後趙の歴代皇帝

7名の一覧

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