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後趙(こうちょう)(五胡十六国(ごこじゅうろっこく))第2代分裂期の王朝

石弘(せきこう)

在位 333年〜334年(1年123日)

姓石(せき)諱弘(こう)字大雅(たいが)

石弘の人物データ

生年
不詳
在位
  • 333年〜334年
在位 1年123日長さは365名中278位
没年
不詳22歳(数え年)267名中長寿順224位タイ
死因
暗殺非業の死・365名中94名
即位経路
世襲
先代
  • 明帝後趙石弘は明帝の子
次代
  • 武帝後趙武帝は石弘の従兄弟

出典(死因・即位経路)

死因
晉書 載記第五 石虎上
即位経路
晉書 載記第五 石虎上

死因と即位経路を判定するときに読んだ正史の書名と巻です。

生涯

どんな皇帝か

石勒(せきろく)の太子として後趙(こうちょう)の位を継いだが、即位の時から実権は石虎(せきこ)に握られ、最後は廃されて殺された。

即位まで

石勒(せきろく)の第二子で、字を大雅(たいが)という。幼くして孝行で、経書と律を学んだが、石勒(せきろく)は乱世だとして兵書と撃刺も習わせた。石勒(せきろく)が帝位に就くと太子に立てられ、士を愛して文詠を好み、親しむのは儒者ばかりで、石勒(せきろく)は将家の子らしくないと評した。徐光が石虎(せきこ)の威権をしだいに奪うよう説くと石勒(せきろく)はこれを容れたが、程遐(か)や徐光が重ねて石虎(せきこ)を除くよう進言すると、石勒(せきろく)は聴かなかった。石勒(せきろく)が死ぬと、石虎(せきこ)は石弘(せきこう)を捕らえて臨軒(りんけん)させ、程遐(か)と徐光を獄に下し、子の石邃(すい)に宿衛を固めさせた。石弘(せきこう)は恐れて位を譲ろうとしたが、石虎(せきこ)は拒んで石弘(せきこう)を立てた。晋書(しんじょ)の載記(さいき)はこれを332年とし、晋書(しんじょ)の成帝(せいてい)紀(き)と資治通鑑(しじつがん)は333年とする。

治世と最期

即位後、石弘(せきこう)は石虎(せきこ)を丞相(じょうしょう)・魏王(ぎおう)とし、石虎(せきこ)の府僚(ふりょう)や旧臣が朝廷の要職を占めた。石勒(せきろく)の妻の劉氏(りゅうし)が石堪と謀って兗州(えんしゅう)を襲わせたが、石堪は捕らえられて焼き殺され、劉氏(りゅうし)も殺された。関中(かんちゅう)の石生と洛陽(らくよう)の石朗も兵を挙げたが、ともに敗れて死んだ。石虎(せきこ)は石弘(せきこう)に諷(ふう)して、自分のために魏台(ぎだい)を建てさせた。石弘(せきこう)は自ら璽綬(じじゅ)を携えて禅位(ぜんい)を申し出たが退けられ、宮に戻って、先帝の子孫はもう残るまいと母に泣いた。資治通鑑(しじつがん)によれば、石虎(せきこ)は石弘(せきこう)を愚かで喪中に礼が無いとして、禅譲(ぜんじょう)ではなく廃位とした。石弘(せきこう)は海陽王(かいようおう)に落とされ、落ち着いて車に就き、天命が去ったのだと群臣に語った。母の程氏(ていし)や弟たちとともに幽閉され、まもなく殺された。その年を晋書(しんじょ)の載記(さいき)は335年とし、成帝(せいてい)紀(き)と資治通鑑(しじつがん)はその前年の暮れとする。晋書(しんじょ)の載記(さいき)・成帝(せいてい)紀(き)と資治通鑑(しじつがん)は、殺し方を記さない。

在位中の出来事(10件)

被反乱333年刘氏・石堪の反石季龙謀議
被反乱333年石聪の離反(歴陽・寿春方面)
被反乱333年彭彪の離反(譙郡)
被反乱333年8月〜334年12月石季龙による簒奪クーデターと石弘の廃殺
被反乱333年11月石朗の乱(洛陽)
被反乱333年11月石生の乱(関中)
被反乱333年12月〜334年4月郭権の乱(上邽・秦州)
被反乱334年陳良夫・薄句大の乱(北地・馮翊の羌乱)
改元日付不詳元号を「延熙」とする
大赦日付不詳

後趙の歴代皇帝

7名の一覧

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