後趙(五胡十六国)第2代分裂期の王朝
石弘
在位 333年〜334年(1年123日)
石弘の人物データ
出典(死因・即位経路)
- 死因
- 晉書 載記第五 石虎上
- 即位経路
- 晉書 載記第五 石虎上
死因と即位経路を判定するときに読んだ正史の書名と巻です。
生涯
どんな皇帝か
石勒の太子として後趙の位を継いだが、即位の時から実権は石虎に握られ、最後は廃されて殺された。
即位まで
石勒の第二子で、字を大雅という。幼くして孝行で、経書と律を学んだが、石勒は乱世だとして兵書と撃刺も習わせた。石勒が帝位に就くと太子に立てられ、士を愛して文詠を好み、親しむのは儒者ばかりで、石勒は将家の子らしくないと評した。徐光が石虎の威権をしだいに奪うよう説くと石勒はこれを容れたが、程遐や徐光が重ねて石虎を除くよう進言すると、石勒は聴かなかった。石勒が死ぬと、石虎は石弘を捕らえて臨軒させ、程遐と徐光を獄に下し、子の石邃に宿衛を固めさせた。石弘は恐れて位を譲ろうとしたが、石虎は拒んで石弘を立てた。晋書の載記はこれを332年とし、晋書の成帝紀と資治通鑑は333年とする。
治世と最期
即位後、石弘は石虎を丞相・魏王とし、石虎の府僚や旧臣が朝廷の要職を占めた。石勒の妻の劉氏が石堪と謀って兗州を襲わせたが、石堪は捕らえられて焼き殺され、劉氏も殺された。関中の石生と洛陽の石朗も兵を挙げたが、ともに敗れて死んだ。石虎は石弘に諷して、自分のために魏台を建てさせた。石弘は自ら璽綬を携えて禅位を申し出たが退けられ、宮に戻って、先帝の子孫はもう残るまいと母に泣いた。資治通鑑によれば、石虎は石弘を愚かで喪中に礼が無いとして、禅譲ではなく廃位とした。石弘は海陽王に落とされ、落ち着いて車に就き、天命が去ったのだと群臣に語った。母の程氏や弟たちとともに幽閉され、まもなく殺された。その年を晋書の載記は335年とし、成帝紀と資治通鑑はその前年の暮れとする。晋書の載記・成帝紀と資治通鑑は、殺し方を記さない。