後趙(五胡十六国)第4代分裂期の王朝
石世
在位 349年〜349年(33日)
石世の人物データ
出典(死因・即位経路)
- 死因
- 晉書 載記第六 石世
- 即位経路
- 晉書 載記第六 石世
死因と即位経路を判定するときに読んだ正史の書名と巻です。
生涯
どんな皇帝か
石世は後趙の石虎が劉曜の幼い娘に生ませた子で、石虎の死と同じ日に即位した。母の劉太后と張豺が政を握ったが、鄴に入った兄の石遵に廃され、まもなく母とともに殺された。
即位まで
石世の母は、張豺が得た劉曜の幼い娘で、石世ははじめ斉公に封じられていた。張豺は老いて病んだ石虎を見て、石世を後嗣に立てて劉氏を太后とし、自らが輔政しようと考え、母が貴く子が孝である者を立てるよう石虎に説いた。石虎は前の太子の石宣の凶行を引いて、石世はまだ幼いと述べ、石世を皇太子に、劉氏を皇后に立てた。資治通鑑はこの立太子を348年に置き、大司農の曹莫は幼い者を立てるべきでないとして上書に署名しなかった。石虎の病中、劉氏と張豺は燕王の石斌が輔政するのを恐れ、石虎の命を偽って石斌を殺させた。349年に石虎が死ぬと石世が即位し、劉氏を皇太后として臨朝させ、張豺を丞相に進めた。
治世と最期
張豺は李農を殺そうと謀ったが、張挙がこれを李農に告げ、李農は乞活の数万家を率いて上白に拠り、劉氏は兵を出して包囲させた。やがて兄の石遵の軍が迫ると、劉氏は泣いて張豺に策を問うたが、張豺はうろたえるばかりで、劉氏は石遵に重い官を加えてなだめようとした。石遵は鄴に入って張豺を斬り、劉氏の令と偽って自ら位を継ぐと、石世を譙王に、劉氏を太妃に落とし、まもなく二人とも殺した。載記は石世の在位を三十三日とするが、資治通鑑考異は即位から廃位までの干支を数えると二十二日にしかならないと指摘している。晋書の載記は二人を退けた石遵のもとでまもなく殺されたと書き、魏書の序紀は殺したのを石遵とし、羯胡石勒伝は石閔とする。沛王の石沖は、先帝の命を受けた石世を石遵が勝手に廃して殺したとして、石遵を討つ兵を挙げた。