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前趙(ぜんちょう)・漢趙(かんちょう)(五胡十六国(ごこじゅうろっこく))第2代分裂期の王朝

劉和(りゅうか)

在位 310年8月29日〜310年9月4日(6日)

姓劉(りゅう)諱和(か)字玄泰(げんたい)

劉和の人物データ

生年
不詳
在位
  • 310年8月29日〜310年9月4日
在位 6日長さは365名中363位
没年
310年9月4日
死因
暗殺非業の死・365名中94名
即位経路
世襲
先代
  • 光文帝前趙・漢趙劉和は光文帝の子
次代
  • 昭武帝前趙・漢趙昭武帝は劉和の弟

出典(死因・即位経路)

死因
晉書 載記第一 劉元海(劉和)
即位経路
晉書 載記第一 劉元海(劉和)

死因と即位経路を判定するときに読んだ正史の書名と巻です。

生涯

どんな皇帝か

父の劉淵(りゅうえん)の後を継いだが、弟たちを殺そうとして逆に弟の劉聡(りゅうそう)に討たれ、即位してまもなく殺された漢(前趙(ぜんちょう))の皇帝である。

即位まで

字は玄泰(げんたい)で、身の丈八尺の美丈夫であり、毛詩(もうし)や左氏春秋(さししゅんじゅう)を修めた。太子となってからは猜疑心(さいぎしん)が強く、下の者を恩で扱わなかったと晋書(しんじょ)の載記(さいき)は評する。劉淵(りゅうえん)が皇后を立てたときに皇太子となり、資治通鑑(しじつがん)はこれを310年のこととする。同じ年、劉淵(りゅうえん)は病床で劉聡(りゅうそう)らに後事を託して没し、劉和(りゅうか)が即位した。

治世と最期

後事を託されなかったことを恨む劉(りゅう)鋭と呼延(こえん)攸(ゆう)は、弟たちが都で強兵を握っている以上、陛下は仮住まいの身にすぎないと説いた。劉和(りゅうか)は呼延(こえん)攸(ゆう)の甥(おい)だったので、この言葉を深く聞き入れた。領軍(りょうぐん)の劉(りゅう)盛は、先帝の殯(ひん)も終わらないのに骨肉で殺し合うべきでないと諫(いさ)めたが、斬られた。劉和(りゅうか)の側は劉聡(りゅうそう)ら四人をそれぞれ討たせたが、北海王(ほくかいおう)を攻める役の者が劉聡(りゅうそう)のもとへ奔ったため、劉聡(りゅうそう)は備えを固めた。劉(りゅう)鋭らは劉裕(りゅうゆう)と劉(りゅう)隆(りゅう)を斬ったが、劉聡(りゅうそう)が西明門(せいめいもん)を攻め落とし、劉和(りゅうか)は光極(こうきょく)西室(せいしつ)で斬られた。資治通鑑(しじつがん)は殺された日を乙酉(いつゆう)とする。劉聡(りゅうそう)は群臣に推されて同じ年に帝位に就いた。一連の出来事を晋書(しんじょ)の懐帝(かいてい)紀(き)は資治通鑑(しじつがん)より1か月早い条に置く。十六国春秋(じゅうろっこくしゅんじゅう)はさらに別の月とするが、資治通鑑(しじつがん)考異(こうい)は暦を調べてこれを誤りとしている。

在位中の出来事(1件)

被反乱310年8月〜310年9月劉聡による反撃・弑逆(劉和の廃位・殺害)

前趙・漢趙の歴代皇帝

5名の一覧

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