梁・南北朝第2代分裂期の王朝
簡文帝蕭綱
在位 549年7月7日〜551年10月2日(2年87日)
姓蕭諱綱字世纘幼名六通廟号太宗
簡文帝の人物データ
出典(死因・即位経路)
- 死因
- 梁書 本紀第四
- 即位経路
- 梁書 本紀第四
死因と即位経路を判定するときに読んだ正史の書名と巻です。
生涯
どんな皇帝か
簡文帝(蕭綱)は梁の武帝の第三子で、侯景の乱のさなかに即位し、侯景の傀儡として在位したのち、廃されて殺された。
即位まで
昭明太子の同母弟で、531年に兄が薨じると皇太子に立てられた。549年、侯景の軍が宮城を攻め落とし、侯景は自ら大丞相となった。南史によれば、このとき蕭綱は永福省に座して侯景と会い、顔色を変えなかった。武帝は求めるものが供されないことを憂い憤って病に臥し、まもなく崩じた。侯景は喪を秘して二十余日後に皇太子を迎え立て、蕭綱は即位して大赦した。南史によれば、強臣に制せられた身の上を込めて文明という年号を立てようとしたが、悟られるのを恐れて大宝に改めた。
治世と最期
侯景は蕭綱を西州へ行かせ、自らは相国・漢王となり、宇宙大将軍を加えた。551年、侯景は兵を殿中に入らせて蕭綱を廃し、永福省に幽閉して、皇太子ら皇子たちを殺した。梁書の侯景伝によれば、これは謀臣の王偉の進言に従ったもので、侯景は蕭綱に禅位の詔を書き写させ、同じ日に豫章王の蕭棟を皇帝に立てた。北斉書の文宣帝紀は、この廃位を梁書とは別の月に置いている。同じ年、王偉らが侯景からの寿酒と称して酒を勧め、酔って寝た蕭綱は土嚢で殺された。梁書の本紀は王偉らが酒を勧めたのち彭俊と王修纂が手を下したとし、侯景伝は二人を遣わしたのは侯景だとして王偉の名を出さず、南史は溧陽公主の讒言を恐れた王偉が殺害を強く勧めたとする。資治通鑑は、王偉が衆望を絶つため殺すよう侯景に説いたとする。侯景は偽りの諡を贈ったが、翌年に元帝が簡文皇帝と追尊した。蕭綱は詩を好み、その艶やかな作風は当時宮体と呼ばれた。
在位中の出来事(4件)
大赦549年7月7日辛巳、簡文帝即位に伴う大赦。
改元550年元号を「大宝」とする
大赦550年
被反乱551年10月2日〜551年11月15日侯景による簡文帝廃位・弑逆