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北魏(ほくぎ)(南北朝(なんほくちょう))分裂期の王朝対立・僭称の皇帝

幼主元釗(ようしゅげんしょう)

在位 528年4月2日〜528年5月17日(45日)

姓元(げん)諱釗(しょう)

幼主元釗の人物データ

生年
不詳
在位
  • 528年4月2日〜528年5月17日
在位 45日3歳で即位(数え年)・長さは365名中349位
没年
528年5月17日3歳(数え年)267名中長寿順265位タイ
死因
暗殺非業の死・365名中94名
即位経路
擁立対立・僭称の皇帝
先代
次代
—

出典(死因・即位経路)

死因
資治通鑑 巻152/魏書 列傳第六十二 爾朱榮傳
即位経路
魏書 巻九 肅宗紀

死因と即位経路を判定するときに読んだ正史の書名と巻です。

生涯

どんな皇帝か

元釗(げんしょう)は北魏(ほくぎ)の孝文帝(こうぶんてい)の曾孫(そうそん)で、528年、孝明帝(こうめいてい)が急死したのち、霊太后(れいたいごう)胡氏(こし)に立てられて幼くして位に即いた。まもなく爾朱(じしゅ)栄が兵を率いて南下し、霊太后(れいたいごう)とともに河陰(かいん)で黄河(こうが)に沈められた。

即位まで

528年に孝明帝(こうめいてい)が崩じると、霊太后(れいたいごう)はまず潘(はん)充華(じゅうか)の生んだ娘を皇子と偽って立てた。ついで霊太后(れいたいごう)は詔でそれが女子だったと明かし、故臨洮王(りんとうおう)の世子の元釗(げんしょう)を、孝明帝(こうめいてい)が我が子同然に愛したとして位に就けた。偽りの即位から元釗(げんしょう)の即位までを、魏書(ぎしょ)の本紀(ほんぎ)は連日とし、皇后伝(こうごうでん)は数日のちとする。孝明帝(こうめいてい)の急死について、魏書(ぎしょ)の皇后伝(こうごうでん)は世論が鄭(てい)儼(げん)と徐紇(こつ)の計略だと言ったと記すにとどまり、資治通鑑(しじつがん)は二人が霊太后(れいたいごう)と謀って毒殺したと断定する。資治通鑑(しじつがん)は、霊太后(れいたいごう)が長く政権を握るために幼い元釗(げんしょう)を選んだと書く。

治世と最期

同じ月、爾朱(じしゅ)栄が上表(じょうひょう)して都へ駆けつけたいと請い、娘を立てて民を欺き、まだ物も言えない子を天下に臨ませていると非難した。爾朱(じしゅ)栄が黄河(こうが)を渡ると、霊太后(れいたいごう)は後宮をみな出家させて自らも髪を落とした。爾朱(じしゅ)栄は騎兵を遣わして霊太后(れいたいごう)と元釗(げんしょう)を河陰(かいん)へ送らせ、二人は黄河(こうが)に沈められた。魏書(ぎしょ)の粛宗(しゅくそう)紀(き)は二人が崩じたとだけ書き、爾朱(じしゅ)栄伝も暴崩(ぼうほう)とだけ記して、沈めたことは書かない。魏書(ぎしょ)の孝荘(こうそう)紀(き)と南史(なんし)は、爾朱(じしゅ)栄が二人を殺したと書いている。

在位中の出来事(2件)

被反乱528年4月葛栄の乱(継続・滄州陥落)
被反乱528年5月15日〜528年5月17日河陰の変(爾朱栄による胡太后・幼主の弑殺)

北魏の歴代皇帝

18名の一覧

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