北魏(南北朝)分裂期の王朝対立・僭称の皇帝
幼主元釗
在位 528年4月2日〜528年5月17日(45日)
姓元諱釗
幼主元釗の人物データ
出典(死因・即位経路)
- 死因
- 資治通鑑 巻152/魏書 列傳第六十二 爾朱榮傳
- 即位経路
- 魏書 巻九 肅宗紀
死因と即位経路を判定するときに読んだ正史の書名と巻です。
生涯
どんな皇帝か
元釗は北魏の孝文帝の曾孫で、528年、孝明帝が急死したのち、霊太后胡氏に立てられて幼くして位に即いた。まもなく爾朱栄が兵を率いて南下し、霊太后とともに河陰で黄河に沈められた。
即位まで
528年に孝明帝が崩じると、霊太后はまず潘充華の生んだ娘を皇子と偽って立てた。ついで霊太后は詔でそれが女子だったと明かし、故臨洮王の世子の元釗を、孝明帝が我が子同然に愛したとして位に就けた。偽りの即位から元釗の即位までを、魏書の本紀は連日とし、皇后伝は数日のちとする。孝明帝の急死について、魏書の皇后伝は世論が鄭儼と徐紇の計略だと言ったと記すにとどまり、資治通鑑は二人が霊太后と謀って毒殺したと断定する。資治通鑑は、霊太后が長く政権を握るために幼い元釗を選んだと書く。
治世と最期
同じ月、爾朱栄が上表して都へ駆けつけたいと請い、娘を立てて民を欺き、まだ物も言えない子を天下に臨ませていると非難した。爾朱栄が黄河を渡ると、霊太后は後宮をみな出家させて自らも髪を落とした。爾朱栄は騎兵を遣わして霊太后と元釗を河陰へ送らせ、二人は黄河に沈められた。魏書の粛宗紀は二人が崩じたとだけ書き、爾朱栄伝も暴崩とだけ記して、沈めたことは書かない。魏書の孝荘紀と南史は、爾朱栄が二人を殺したと書いている。
在位中の出来事(2件)
被反乱528年4月葛栄の乱(継続・滄州陥落)
被反乱528年5月15日〜528年5月17日河陰の変(爾朱栄による胡太后・幼主の弑殺)