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北魏(ほくぎ)(南北朝(なんほくちょう))第10代分裂期の王朝

節閔帝(せつびんてい)元恭(げんきょう)

在位 531年4月1日〜532年6月6日(1年67日)

姓元(げん)諱恭(きょう)字修業(しゅうぎょう)別称前廃帝(ぜんはいてい)

節閔帝の人物データ

生年
不詳
在位
  • 531年4月1日〜532年6月6日
在位 1年67日長さは365名中281位
没年
532年35歳(数え年)267名中長寿順163位タイ
死因
暗殺非業の死・365名中94名
即位経路
擁立
先代
次代
—

出典(死因・即位経路)

死因
魏書 巻十一 前廢帝紀
即位経路
魏書 巻十一 前廢帝紀

死因と即位経路を判定するときに読んだ正史の書名と巻です。

生涯

どんな皇帝か

口がきけないふりをして12年近くを過ごし、爾(じ)朱氏(しゅし)に擁立されて1年余りで高歓(こうかん)に廃された北魏(ほくぎ)の皇帝である。

即位まで

広陵(こうりょう)恵王(けいおう)元羽(げんう)の子である。権臣の元叉(さ)を嫌って病と称して出仕せず、やがて口がきけない病を装い、龍花寺(りゅうかじ)で12年近く言葉を発しなかった。黙っているのは何かたくらみがあるからだ、天子の気があると噂(うわさ)され、逃げて捕らえられたが、証拠が無く放たれた。孝荘帝(こうそうてい)の死後、爾朱(じしゅ)世隆(せいりゅう)らは立てていた元曄(げんよう)に人望が無いとして替えようとし、本当に口がきけないのか確かめさせたところ、節閔帝(せつびんてい)は天が何を言うだろうかと答えた。洛陽伽藍記(らくようがらんき)は、孝荘帝(こうそうてい)が刀で脅しても舌を指さして黙り通したと書くが、資治通鑑(しじつがん)の考異(こうい)は魏書(ぎしょ)の話を採っている。531年、元曄(げんよう)から禅譲(ぜんじょう)を受ける形で即位した。

治世と最期

即位の翌日、秦(しん)より後に競って皇帝と名乗ってきたことを批判し、自分は帝と称するにとどめると詔した。その年のうちに高歓(こうかん)が爾(じ)朱氏(しゅし)を討つと称して信都(しんと)で兵を挙げ、別の皇帝を立てたうえで、翌年春に韓陵(かんりょう)で爾(じ)朱氏(しゅし)を破った。邙山(ぼうざん)に至った高歓(こうかん)は、魏(ぎ)蘭根(らんこん)を洛陽(らくよう)へ遣わして節閔帝(せつびんてい)の人柄を見させたが、蘭根(らんこん)はその徳を警戒して悪く伝え、節閔帝(せつびんてい)は崇訓仏寺(すうくんぶつじ)に廃された。位を失った節閔帝(せつびんてい)は、一年に三度も天子が替わったと詠む詩を作った。最期について、魏書(ぎしょ)は532年に門下(もんか)外省(がいしょう)で亡くなったとだけ書き、死因を記さない。北史(ほくし)は弑(しい)されたと明記し、資治通鑑(しじつがん)は孝武帝(こうぶてい)が毒酒を飲ませたと書くが、毒殺の出どころは示されていない。

在位中の出来事(7件)

被反乱531年3月〜531年6月崔祖螭の反乱(青州七郡の蜂起)
被反乱531年3月〜531年4月劉靈助の反乱(幽州刺史、蓟での挙兵)
改元531年4月1日元号を「普泰」とする
大赦531年4月1日
被反乱531年7月〜532年6月高歓の挙兵(信都義兵)~韓陵の戦い~節閔帝廃位
被反乱日付不詳宿勤明達の乱(隴西・秦州方面)
被反乱日付不詳趙修延の乱(南陽太守による荊州刺史拘束)

北魏の歴代皇帝

18名の一覧

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