北魏(南北朝)第2代分裂期の王朝
明元帝拓跋嗣
在位 409年11月10日〜423年12月24日(14年47日)
明元帝の人物データ
出典(死因・即位経路)
- 死因
- 魏書 巻3 太宗紀
- 即位経路
- 魏書 巻3 太宗紀
死因と即位経路を判定するときに読んだ正史の書名と巻です。
生涯
どんな皇帝か
父の道武帝が子の清河王紹に殺された変を収めて即位した北魏の皇帝で、崔浩を重く用い、晩年には劉宋に攻め込み、魏軍は虎牢を落とした。魏書の史臣は、純孝の心を抱いて父殺しの禍に遭い、権道で事を済ませて危うきを安んじたと評する。
即位まで
道武帝の長子で、母は劉貴人であり、392年に雲中宮で生まれた。道武帝は外戚の乱を防ぐとして劉貴人に死を賜り、明元帝に跡を継ぐよう告げた。明元帝が泣き止まないので道武帝は怒り、明元帝は左右の勧めで宮外へ逃れた。409年、母を殺されかけた清河王紹が夜に宮中へ押し入り、道武帝は弓や刀を探しても見つからないまま死んだ。明元帝は戻って山中に潜み、安同に告げさせて人々が応じると、衛士が紹を捕らえて送り、紹とその母に死を賜った。同じ年に即位して大赦し、永興と改元した。即位の日を北史は魏書と10日違えて書く。宋書の索虜伝は、道武帝の愛妾が清河王と通じて内応したとし、明元帝は清河王を泣いて責め、自殺させたとする。
治世と最期
415年、凶作で鄴への遷都が勧められたが、崔浩らが反対し、明元帝はこれに従った。劉裕の北伐の際には崔浩の策を退けて戦わせ、畔城で敗れて、崔浩の計を用いなかったことを悔やんだ。422年には寒食散の発作が続いて政務に堪えず、崔浩の進言を容れて皇太子に朝政を見させた。同じ年、劉裕の死を聞いて南を攻めようとし、喪に乗じるのに反対する崔浩に大いに怒って、奚斤に南伐させた。奚斤が滑台を落とせないと、自ら南へ出て後押しした。423年に虎牢が落ちたが、魏の兵に疫病が広がり、十人に二、三人が死んだ。宋書の索虜伝は、明元帝が自ら3日攻めても虎牢を落とせず洛陽へ向かったとする。同じ年に西宮で没した。魏書は崩御の条に死因を書かず、このサイトの死因が病死となっているのは、前年に寒食散の発作で政務に堪えなかったという記事による。