
後漢第12代統一王朝
霊帝劉宏
在位 168年2月17日〜189年5月13日(21年91日)
姓劉諱宏
霊帝の人物データ
出典(死因・即位経路)
- 死因
- 後漢書 巻八 孝靈帝紀/後漢書 列傳第五十九 竇何列傳(何進傳)/資治通鑑 巻五十九
- 即位経路
- 後漢書・本紀第九章 孝霊帝紀
死因と即位経路を判定するときに読んだ正史の書名と巻です。
生涯
どんな皇帝か
傍系から迎えられて即位し、党錮の禁と売官、黄巾の乱が重なった後漢の皇帝である。後漢書の賛は、霊帝が身を宦官に委ねたとまとめている。
即位まで
章帝の玄孫で、代々の解瀆亭侯の家を継いでいた。桓帝が子の無いまま没すると、竇太后とその父の竇武が宮中で跡継ぎを議し、竇武伝によれば河間出身の侍御史劉儵が推した劉宏が選ばれた。168年に即位して建寧と改元した。
治世と最期
即位の年のうちに中常侍の曹節が詔を偽り、陳蕃・竇武らを誅してその一族を滅ぼした。169年には侯覧の働きかけで李膺・杜密らが鉤党として獄に下され、死者は百余人に上り、縁者まで官に就くことを禁じられた。176年、党人をかばった曹鸞が棄市され、党人の門生や親族で官にある者はすべて職を解かれた。178年には西邸を開いて官を売り、側近には公の位を千万、卿の位を五百万で売らせた。崔烈が五百万銭を納めて司徒になると、霊帝はもう少し惜しめば千万取れたと側近に言ったと崔寔伝は記す。侯家の貧しい出だったことから私財を蓄え、宦官の張常侍を父、趙常侍を母と呼んでいた。184年、鉅鹿の張角の配下が黄巾を着けて各地で同じ日に蜂起した。これを受けて党人を大赦し、移されていた者を帰したが、張角だけは赦さなかった。188年には西園八校尉を置き、自ら無上将軍と称して兵を閲した。189年に南宮の嘉徳殿で没した。本紀は死因を書かず、何進伝と資治通鑑は、病が重くなって皇子の協を蹇碩に託したと書く。
在位中の出来事(46件)
改元168年2月元号を「建寧」とする
被反乱168年2月〜169年8月先零羌の反乱(段熲討伐)
大赦168年3月
大赦169年建寧二年正月丁丑、大赦天下。
被反乱169年江夏蛮の反乱(1回目)
被反乱169年丹陽山越賊の反乱
被反乱170年済南賊の反乱
大赦171年建寧四年正月甲子、帝が元服を加えるにあたり大赦天下。
立后171年
改元172年元号を「熹平」とする
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大赦172年熹平元年五月己巳、大赦天下・改元熹平(改元と同時の大赦)。
被反乱172年〜174年会稽許生の反乱
大赦173年熹平二年二月壬午、大赦天下。
大赦174年熹平三年二月己巳、大赦天下。
大赦175年熹平四年五月丁卯、大赦天下。
大赦176年熹平五年四月癸亥、大赦天下。
被反乱176年益州郡夷の反乱
大赦177年熹平六年正月辛丑、大赦天下。
改元178年元号を「光和」とする
大赦178年光和元年三月辛丑、大赦天下・改元光和(改元と同時の大赦)。
被反乱178年〜181年合浦・交阯烏浒蛮の反乱
大赦179年光和二年六月丁酉、大赦天下。
被反乱179年〜182年巴郡板楯蛮の反乱(1回目)
大赦180年光和三年正月癸酉、大赦天下。
被反乱180年江夏蛮の反乱(2回目)
大赦181年光和四年四月庚子、大赦天下。
立后181年
大赦182年光和五年正月辛未、大赦天下。
大赦183年光和六年三月辛未、大赦天下。
被反乱184年黄巾の乱
被反乱184年巴郡妖巫張脩の反乱
改元185年元号を「中平」とする
大赦185年中平元年十二月己巳、大赦天下・改元中平(改元と同時の大赦)。
被反乱185年〜189年3月涼州の乱(湟中義従胡・先零羌・金城の反乱)
被反乱185年黒山賊(張牛角ら)の反乱
大赦186年中平三年二月庚戌、大赦天下。
大赦187年中平四年正月己卯、大赦天下。
被反乱187年滎陽賊の反乱
被反乱187年〜189年4月漁陽張純・張挙の反乱
被反乱187年休屠各胡・南匈奴の内乱
大赦188年中平五年正月丁酉、大赦天下。
被反乱188年黄巾余賊・白波賊(郭太ら)の反乱
被反乱188年汝南葛陂黄巾の反乱
被反乱188年益州黄巾馬相の反乱
被反乱188年青・徐黄巾の再起
被反乱188年巴郡板楯蛮の反乱(2回目)