後漢第11代統一王朝
桓帝劉志
在位 146年8月1日〜168年1月25日(21年182日)
姓劉諱志廟号威宗
桓帝の人物データ
出典(死因・即位経路)
- 死因
- 後漢書 巻七 孝桓帝紀
- 即位経路
- 後漢書・本紀第八章 孝桓帝紀
死因と即位経路を判定するときに読んだ正史の書名と巻です。
生涯
どんな皇帝か
梁冀に擁立され、のちに宦官と謀って梁冀を滅ぼしたが、政の実権は宦官に移り、党錮の禁が起きた後漢の皇帝である。
即位まで
章帝の曾孫で、祖父は河間孝王開、父は蠡吾侯翼であり、父の死後に侯を継いだ。146年、梁太后は妹を娶らせるために彼を夏門亭に召していたが、質帝が没すると兄の梁冀と宮中で策を定め、数日後に彼を南宮に迎えて即位させた。梁冀伝は、聡明な質帝に跋扈将軍と呼ばれた梁冀が毒入りの餅で質帝を殺したと書く。李固伝によれば、公卿の多くは清河王劉蒜を推したが、宦官の曹騰が梁冀を説き、梁冀は李固を退けて蠡吾侯を立てた。
治世と最期
147年、劉蒜を天子に立てる謀が露見して劉蒜は自殺し、李固・杜喬も獄死した。150年に梁太后が政を返して没した。159年に梁皇后が没すると、桓帝は兵に梁冀の邸を囲ませ、梁冀と妻は自殺して一族は誅された。宦者伝によれば、桓帝は厠で唐衡に梁氏と不仲の者を問い、単超ら五人と謀って単超の腕を噛んで血の盟いをした。五人は同じ日に県侯に封じられて五侯と呼ばれ、宦者伝は、これより権が宦官に帰したと記す。167年の初め、司隷校尉の李膺ら二百余人が党人と誣告されて獄に下された。同じ年の大赦について、本紀は党錮をことごとく除いたと書くが、党錮列伝と資治通鑑は、党人は郷里に帰されたものの終身の禁錮とされたと書く。西暦では168年の初めに徳陽前殿で没し、竇皇后が皇太后として朝に臨んだ。本紀の賛は、後宮は満ちても跡継ぎが無かったと評する。
在位中の出来事(55件)
改元147年元号を「建和」とする
大赦147年
立后147年
被反乱147年清河劉文の乱(清河王劉蒜擁立未遂)
被反乱147年陳留李堅の反乱(自称皇帝)
大赦148年
被反乱148年白馬羌の広漢属国侵寇
改元150年元号を「和平」とする
大赦150年
被反乱150年扶風裴優の乱(自称皇帝)
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改元151年元号を「元嘉」とする
大赦151年
被反乱151年〜153年武陵蛮の乱(第一次)
改元153年元号を「永興」とする
大赦153年
大赦154年
被反乱154年蜀郡李伯の反乱(太初皇帝僭称)
被反乱154年〜156年泰山・琅邪賊公孫挙の乱
改元155年元号を「永寿」とする
大赦155年
被反乱155年南匈奴の反乱(美稷侵寇)
大赦157年
被反乱157年〜160年九真・日南蛮夷の乱
被反乱157年〜160年長沙蛮の乱(第一次)
改元158年元号を「延熹」とする
大赦158年
立后159年
被反乱159年焼当等八種羌の反乱(隴右侵寇)
大赦160年
被反乱160年焼何羌の反乱(張掖侵寇)
被反乱160年泰山・琅邪賊労丙の乱
被反乱160年勒姐羌の允街包囲
被反乱160年泰山賊叔孫無忌の乱
被反乱160年武陵蛮の乱(第二次)
大赦161年
被反乱161年犍為属国夷の反乱
被反乱161年零吾・先零羌等の反乱(三輔侵寇)
被反乱162年鳥吾羌の反乱(漢陽・隴西・金城侵寇)
被反乱162年〜164年長沙・零陵・桂陽・蒼梧・南海・交阯の大反乱
被反乱162年武陵蛮の乱(第三次)
被反乱162年〜163年滇那羌の反乱(武威・張掖・酒泉侵寇)
大赦163年
被反乱163年武陵蛮の乱(第四次)
被反乱164年〜165年当煎羌の反乱
大赦165年
立后165年
被反乱165年罕姐羌の反乱
被反乱165年桂陽胡蘭・朱蓋の反乱
被反乱165年勃海妖賊蓋登の乱(太上皇帝僭称)
被反乱166年沛国戴異の乱(太上皇僭称)
被反乱166年南匈奴・烏桓の反乱(縁辺九郡侵寇)
改元167年元号を「永康」とする
大赦167年
被反乱167年先零羌の反乱(三輔侵寇)
被反乱167年当煎羌の反乱(武威侵寇、第二次)