前漢第4代統一王朝
後少帝劉弘
在位 前184年6月15日〜前180年11月14日(4年153日)
姓劉諱弘
後少帝の人物データ
出典(死因・即位経路)
- 死因
- 史記・呂太后本紀
- 即位経路
- 史記・呂太后本紀
死因と即位経路を判定するときに読んだ正史の書名と巻です。
生涯
どんな皇帝か
前少帝に代わって呂太后に立てられ、呂氏が滅んだあと、恵帝の子ではないとして大臣たちに殺された前漢の皇帝である。
即位まで
史記によれば、恵帝の後宮の子の山は襄城侯から常山王となって名を義と改め、前少帝が廃されたあと皇帝に立てられて名を弘と改めた。漢書高后紀は弘を襄城侯に封じた記事と即位の記事だけを載せ、改名の経緯を書かない。呂太后が政治を執っていたので、元年は立てなかった。
治世と最期
在位中に南越王の尉佗が帝号を称して長沙を侵し、送られた軍は疫病で嶺を越えられなかった。前180年に呂太后が没し、大臣たちが呂氏を滅ぼすと、後少帝と王となった弟たちはみな恵帝の子ではないとされた。史記ではこの主張は地の文ではなく大臣たちの密議の言葉として出てきて、漢書の文帝紀では群臣が代王(文帝)に申し述べた言葉として載る。漢書の五行志が引く劉向の説は弘を呂氏の子と書き、ほかの箇所の後宮の子という書き方と食い違う。東牟侯興居と滕公が宮中に入り、後少帝に劉氏ではないと告げて少府へ移し、その夜、役人たちが手分けして、王とされていた弟たちとともに邸で殺した。
在位中の出来事(4件)
被反乱前183年〜前181年南越王尉佗の自立(南武帝僭称)・長沙侵攻
大赦前182年
大赦前180年8月18日高后紀八年秋七月辛巳、皇太后(呂后)が未央宮で崩御した際の遺詔により大赦。
被反乱前180年9月〜前180年11月諸呂誅滅にともなう少帝弘の廃位・誅殺(呂氏政変)