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前漢(ぜんかん)第4代統一王朝

後少帝(こうしょうてい)劉弘(りゅうこう)

在位 前184年6月15日〜前180年11月14日(4年153日)

姓劉(りゅう)諱弘(こう)

後少帝の人物データ

生年
不詳
在位
  • 前184年6月15日〜前180年11月14日
在位 4年153日長さは365名中197位
没年
不詳
死因
暗殺非業の死・365名中94名
即位経路
擁立
先代
  • 前少帝前漢後少帝は前少帝の弟(異説あり)
次代
  • 文帝前漢文帝は後少帝の叔父(異説あり)

出典(死因・即位経路)

死因
史記・呂太后本紀
即位経路
史記・呂太后本紀

死因と即位経路を判定するときに読んだ正史の書名と巻です。

生涯

どんな皇帝か

前少帝(ぜんしょうてい)に代わって呂太后(たいこう)に立てられ、呂氏(りょし)が滅んだあと、恵帝(けいてい)の子ではないとして大臣たちに殺された前漢(ぜんかん)の皇帝である。

即位まで

史記(しき)によれば、恵帝(けいてい)の後宮の子の山は襄城侯(じょうじょうこう)から常山王(じょうざんおう)となって名を義と改め、前少帝(ぜんしょうてい)が廃されたあと皇帝に立てられて名を弘(こう)と改めた。漢書(かんじょ)高后紀(こうこうき)は弘(こう)を襄城侯(じょうじょうこう)に封じた記事と即位の記事だけを載せ、改名の経緯を書かない。呂太后(たいこう)が政治を執っていたので、元年は立てなかった。

治世と最期

在位中に南越王(なんえつおう)の尉佗(いた)が帝号(ていごう)を称して長沙(ちょうさ)を侵し、送られた軍は疫病で嶺(れい)を越えられなかった。前180年に呂太后(たいこう)が没し、大臣たちが呂氏(りょし)を滅ぼすと、後少帝(こうしょうてい)と王となった弟たちはみな恵帝(けいてい)の子ではないとされた。史記(しき)ではこの主張は地の文ではなく大臣たちの密議の言葉として出てきて、漢書(かんじょ)の文帝(ぶんてい)紀(き)では群臣が代王(だいおう)(文帝(ぶんてい))に申し述べた言葉として載る。漢書(かんじょ)の五行志(ごぎょうし)が引く劉向(りゅうきょう)の説は弘(こう)を呂氏(りょし)の子と書き、ほかの箇所の後宮の子という書き方と食い違う。東牟侯(とうぼうこう)興居(こうきょ)と滕公(とうこう)が宮中に入り、後少帝(こうしょうてい)に劉氏(りゅうし)ではないと告げて少府(しょうふ)へ移し、その夜、役人たちが手分けして、王とされていた弟たちとともに邸で殺した。

在位中の出来事(4件)

被反乱前183年〜前181年南越王尉佗の自立(南武帝僭称)・長沙侵攻
大赦前182年
大赦前180年8月18日高后紀八年秋七月辛巳、皇太后(呂后)が未央宮で崩御した際の遺詔により大赦。
被反乱前180年9月〜前180年11月諸呂誅滅にともなう少帝弘の廃位・誅殺(呂氏政変)

前漢の歴代皇帝

14名の一覧

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