漢・赤眉軍(新〜後漢初)第1代反乱・自称政権
建世帝劉盆子
在位 25年〜27年3月15日(1年273日)
建世帝の人物データ
- 生年
- 11年
- 在位
- 25年〜27年3月15日
- 没年
- 不詳
- 死因
- 不詳365名中33名
- 即位経路
- 推戴帝号を新たに称した
- 先代
- —
- 次代
- —
出典(死因・即位経路)
- 死因
- 後漢書 劉玄劉盆子列傳
- 即位経路
- 後漢書 劉玄劉盆子列傳
死因と即位経路を判定するときに読んだ正史の書名と巻です。
生涯
どんな皇帝か
劉盆子は前漢の城陽景王劉章の後裔で、赤眉の軍中で牛飼いをしていたところをくじ引きで選ばれ、帝に立てられた。実権は赤眉の諸将にあり、27年に光武帝に降った。
即位まで
祖父の劉憲が式侯に封じられ、父の劉萌がそれを嗣いだ家の子で、泰山郡式県の人である。赤眉が式を通ったとき、兄の劉恭・劉茂とともに連れ去られ、劉茂とともに軍中で牛を飼って牛吏と呼ばれた。樊崇らは城陽景王の後裔七十余人から最も血筋の近い三人を選び、上将軍と書いた札一枚と空札二枚を年の順に引かせ、最年少の劉盆子が最後に当たりの札を引いた。25年、赤眉は劉盆子を帝に立てて建世と号したが、ぼろをまとった裸足の少年は拝されて泣き出しそうになり、兄の劉茂に札をしまっておくよう言われると、札を噛み折って捨て、また劉侠卿のもとへ戻った。
治世と最期
同じ年に赤眉は長安に入り、更始帝劉玄は劉盆子に玉璽と綬を奉って降った。劉玄伝によれば、更始帝はのちに謝禄の命で絞め殺されたが、光武十王伝には更始帝の子の劉鯉が劉盆子を父の仇として恨み、兄の劉恭を殺させたという話がある。26年の元日の大会で、劉盆子は兄の劉恭の教えにより玉璽と綬を解いて退位を願ったが、樊崇らは詫びて再び身に帯びさせた。二十日あまりのちに赤眉は略奪を再開し、食糧が尽きると宮室に火を放って長安を去った。27年、宜陽で光武帝の大軍に遭うと、樊崇が劉盆子と丞相の徐宣ら三十余人を連れ、肌脱ぎして降った。後漢紀はこのとき降った人数を二十余人とする。東観漢記の輯本には降伏を申し出た兄を式侯旦と記す一本があるが、ほかの本は劉恭と作り、輯本の注は式侯を劉恭のこととしている。光武帝は死罪を覚悟して赦しを乞う劉盆子を笑って憐れみ、手厚く賞賜して趙王の郎中とした。劉盆子はのちに病で失明し、滎陽の均輸官の地を賜ってその税で終身暮らしたが、劉盆子伝や光武帝紀、資治通鑑、後漢紀は、その没年も死因も記していない。