呉・三国第3代分裂期の王朝
景帝孫休
在位 258年11月30日〜264年9月3日(5年279日)
姓孫諱休字子烈
景帝の人物データ
出典(死因・即位経路)
- 死因
- 三國志 呉書三 三嗣主傳 裴松之注引江表傳
- 即位経路
- 三国志・呉書・三嗣主伝
死因と即位経路を判定するときに読んだ正史の書名と巻です。
生涯
どんな皇帝か
孫休は三国呉の孫権の第六子で、権臣の孫綝が弟の孫亮を廃したのち、迎えられて即位した。即位からまもなく、自分を立てた孫綝を張布らと図って誅殺した。
即位まで
252年に琅邪王に封ぜられ、同じ年に孫権が没して弟の孫亮が継ぐと、丹陽郡、ついで会稽へ移された。258年、孫亮が全尚・劉丞と孫綝の誅殺を謀ると、孫綝は全尚を捕らえて劉丞を殺させ、孫亮を会稽王に落とした。孫綝は典軍の施正の勧めで孫休を立てることにし、宗正の孫楷らを迎えに遣わした。孫休ははじめ疑ったが、迎えの使者に説かれて出発し、三たび辞退したのちに即位して、その日のうちに大赦・改元した。
治世と最期
即位後、孫綝の一門の五侯はみな禁兵を握り、孫休は変を恐れてたびたび賞賜を加えた。孫綝は張布の前で、帝は自分がいなければ立たなかったと恨み言を吐き、張布がこれを孫休に告げた。孫休は張布とひそかに図り、259年の初めの臘祭の朝賀の席で孫綝を武士に縛らせ、その日のうちに誅した。孫綝伝によれば、孫綝は交州への流罪や官奴への降格を乞うたが許されずに斬られ、三族を滅ぼされた。その後は旧恩のある濮陽興と張布に政を委ね、張布が宮中を、濮陽興が軍国を掌った。263年には交阯で呂興らが太守を殺して反し、同じ年に蜀の救援要請を受けて出兵したが、劉禅が魏に降ったとの報で取りやめた。264年に没し、景皇帝と諡された。三嗣主伝の本文は死因を記さないが、裴注所引の江表伝は、孫休が病で口がきけなくなり、濮陽興の臂を取って子を託したと記す。孫休の死後、濮陽興と張布は朱太后を説いて孫休の嫡子を退け、孫和の子の孫晧を迎え立てた。
在位中の出来事(8件)
改元258年11月30日元号を「永安」とする
大赦258年11月30日即位当日、正殿に御し大赦・改元を行った。
大赦262年永安五年八月、乙酉に立皇后、戊子に立太子とともに大赦。
立后262年妃であった朱氏(朱据の女、孫休の姉公主が生んだ人物)を皇后に冊立。
被反乱263年交阯郡吏呂興の乱
大赦264年2月永安七年正月の大赦。
被反乱264年8月豫章の民・張節らの乱
大赦264年9月2日永安七年七月壬午、崩御前日の大赦。
呉・三国の歴代皇帝
4名の一覧- 第1代大帝229–252年不詳
- 第2代孫亮252–258年諸説あり
- 第3代景帝258–264年不詳
- 第4代末帝264–280年不詳