斉・南北朝第7代分裂期の王朝
和帝蕭宝融
在位 501年4月14日〜502年4月30日(1年16日)
姓蕭諱宝融字智昭
和帝の人物データ
出典(死因・即位経路)
- 死因
- 南史/卷05 齊本紀下第五
- 即位経路
- 南齊書/卷8(和帝紀)
死因と即位経路を判定するときに読んだ正史の書名と巻です。
生涯
どんな皇帝か
蕭宝融は南斉の明帝蕭鸞の第八子で、501年、蕭衍らに擁されて江陵で位に即いた。建康が平定されると梁王となった蕭衍に位を譲り、巴陵王とされてまもなく姑熟で死んだ。
即位まで
蕭宝融は494年に随郡王、499年に南康王となって荊州刺史を務めた。500年、荊州の長史の蕭穎冑が劉山陽を殺して兵を挙げ、奉じた相手を南斉書は蕭衍とし、南史は南康王とする。同じ年、蕭衍は上表して蕭宝融に帝位に即くよう勧めた。501年、宣徳太后の令が蕭宝融を宣城王・相国とし、蕭宝融は江陵で皇帝の位に即いて中興と改元した。梁書によれば、即位と同時に兄の蕭宝巻を遠く涪陵王に廃し、蕭衍を征東大将軍・都督征討諸軍事とした。
治世と最期
501年の末に建康が平定されると、蕭衍は大司馬・録尚書事となって承制した。502年、蕭衍は相国・梁公に進んで九錫を加えられ、ついで梁王となった。同じ年、蕭宝融は東へ帰る途中の姑熟で梁王に位を譲り、巴陵王とされて姑熟に住まわされた。南斉書と梁書は巴陵王が薨じたとだけ記し、殺されたとは書かない。南史は、鄭伯禽が生金を進めると蕭宝融は死ぬのに金は要らぬ、醇酒で足りると言って酒を飲み、伯禽がこれを折ったと記す。資治通鑑も、鄭伯禽が泥酔した蕭宝融を折り殺したと明記している。
在位中の出来事(2件)
改元501年4月14日元号を「中興」とする
大赦501年4月14日